水曜日, 1月 30, 2008

笑うとは何か

橋があるとその橋は大抵渋滞します。
昔の人が川を隔てて街の区分を決めたのは自然で、
たかが川ひとつで生活が極端に異なるのだから
海を隔ててしまった場所の生活は全く別だという気がします。

人の死がとても嫌いで、
ホラー映画も仁侠映画も全く観ないのに
がんに関わる研究をするようになったのは複雑な気分で、
本当はとても苦手な分野です。

苦手であるからひとつひとつのプロセスを
意識に乗せ、自らに承認を求めながら作業をこなす必要が生じ、
それは別の視点での理解に近づきます。

哲学がいくら「死」は存在しないといっても
外的な「死」は存在します:
それは肉体的に不可逆的な機能停止です。

葬式で笑ってはいけないのはなぜだろう、と
ふと考えています。
「笑う」のは不謹慎だ、と人は言います。
しかしなぜ人が「笑う」のかと問われて、
「笑う意味」について考える人がどれだけいるのだろう、とも
思います。

しばらく書きながら考えます。

愛する家族を失った者にとって死は悲しむべきものであり、
笑うことは悲しみの対極にあるもので、
共感をそぐから、というのが多分一般的な意見になりそうで、
しかしここで「死」が「悲しむもの」である前提は
疑われる必要があります。

苦痛にさいなまれてベッドに縛られているものにとって
死は唯一絶対の解放ではないか、と思うのです。

死別と言う言葉があるように、
死は別れだとされています。
別れとは「コミュニケーションが不能になること」であって、
死んだ人とは話すことができず、
それは遠く別れ離れた人と話せないのと同じです。
そして生きて別れた人とはコミュニケーションの可能性が残されますが
死んだ人とは対話としてのコミュニケーションを失います。

しかしそれらを差し置いても、
葬式で笑ってはいけない理由とはなりえません。
非常に極端な例を持ち出せば、
「死んだ後も人に笑い転げて欲しい」と願った落語家の葬式で
笑ってあげなければ、
まわりの家族にはともかく本人の意思には背きます。

このことから、
死の意味は社会的関係性の中に
多分に存在することがわかります。

自分が死んだら悲しんで欲しい、という気持ちが
人に葬式で悲しみを表現させる原因となっています。

悲しむとは「現前した状況の否定」です。
そこから、笑うとは「現前した状況の肯定」であることがわかります。
「死を受容しない」「死を受容したくない」という気持ちが
「笑ってはいけない」に繋がります。

笑いが「肯定」を表すのであれば、
「笑わない日本」は「肯定していない日本」と同じです。

それでは「死」を「肯定する」ことが可能だろうか、と
考えの焦点は移ります。

笑いは「全面的な受容」に相当する、
そうすると笑いが「一部分だけの受容」を表すことはありません。
「全面的」という言葉には特有の響きがあり、
「全部」は完全に汎用である必要を求めます。

この世界を見て笑っていられない、と感じ、
それは「受け入れられない」ものがあると感じるからです。
たとえば目の前で人が死んでいなくても、
「人は死に続けている」こと自体が逃れようのない普遍的な事実で、
これを拒否することはできません。

生物は本態的に死を恐れる存在です。
たとえ動物に感情があるかどうか不明であっても、
何の理由もなく命を絶とうとはしないのと同じです。
脳に欠陥が生じた場合はこの限りではありません。

単細胞生物にアポトーシスはないが、
動物の細胞にはアポトーシスがあるのだそうで、
自らの存在確認機構というのは
集団としてのシステムに特有の機能であることがわかります。

もし人間が一人で生きられるとしたら、
もうすこし正確に言うと、人間の細胞がひとつでも生き続けられるとしたら
本来死ぬことを心配する必要はありません:
個々の細胞が離れて生存すればいいからです。
人間の細胞が単体で生きられないこと、
人の意思に「自殺」=アポトーシスが組み込まれていることは
人間は最初から「人間社会」というシステムの一部であることに対応します。

人間とは「個体で生きることを選択しなかった」生物に
分類されます。
そして社会システム自体はそれが生き物であるならば
「死」を受容できません。
社会システムは常に、それ自身の死を選ぶぐらいなら
その構成要因である人間の一部の死を選択し続けます。
それは人間が焼けた山肌を登るときに、
手をやけどして手の細胞を犠牲にしてでも生き残るのと同じです。

人は常にただ生きているのではありません:
自らの中でさえ常に死と再生を伴わせて生きています。
そして不要な細胞を「殺し」、必要な細胞を「生かして」
システムを維持しています。

「笑い」の積分量が
「生存と死」を分ける引き金になっているのではないだろうかと
考えは進みます。
もし「笑う」が重要なシグナルだとしたら、
「笑う」力とは社会システム自体が発動する感覚であるはずです。

平均寿命を延ばすことによって、
人は死から「ただひたすら遠ざかって」きたのです。
戦後の人口増加が「生」を増やし続け、
「生物学的生」がその生命単体で保証されていたために、
これまでは「笑う」という秩序を必要としなかった、と考えます。

人間はいうなれば「自らの細胞というシステム」の管理者であり、
「社会システム」の被管理者です。
社会を構成するためには人間は生きていなければならず、
この観点から「人間の死」は基本的には否定されます。
しかし「社会システムの死」はそれよりも強い否定を要請します。

生物的死と社会的死を独立した象限としてとると、
死には4つの意味があることが分かります。

人間としての死が社会システムの死を遠ざける場合、
人間としての生が社会システムの死を遠ざける場合、
人間としての死が社会システムの死を近づける場合、
人間としての生が社会システムの死を近づける場合です。

1番目が社会的役割を終えたものの死、
2番目が新たに生まれ社会的役割を果たすものの生、
3番目が社会的役割を果たす能力があるものの死、
4番目が社会システムを破壊するものの生に対応します。

このうち、両方の生を選ぶことが理想ですが、
人間の死は避けることができません。
一方で、生き始めた人間にとって生も避けることができません。

がんの患者はこの象限が混在し始めます。
完治の見込みを失う場合が特に複雑です。
人間としての生は確かに続いていますが、
その生の維持のために大きな社会システムの力を
必要とするようになります。

患者を治すというのは
「社会システム」の生と
「人間」の生を維持する両方の意味があります。
個人としての人間は、この二つのシステム、
生物的人間と社会的人間のシステムの両方に通用する
回答を見つける必要があります。

「娯楽」や「享楽」の笑いではなく、
豊かな微笑みの発露としての笑いとして、
社会システムの秩序レベルと「笑いの総量」は
強い相関があるような気がしてなりません。

「笑い」とは社会システムに秩序をもたらす原動力でしょうか?

笑いは受容であるならば、
がんであることを受容することはどこから生まれるのでしょうか?
それは可能でしょうか?
めぐりめぐってがんの患者と向き合うとき、
わたしは「笑い」をどう取り扱えばいいのでしょうか?

私自身にこれを置き換えるならば、
人間の最後の仕事は「自らの死」を「受容する」ことになります。
これは人間の生がある限り本態的に不可能なことです。

人にこれを当てはめるならば、
がんの患者に「笑いかける」ことはまったく可能であって、
不謹慎でも何でもありません:
それが-「存在の受容」が
「人が死ぬ尊い存在であると受容する」と表現する限りにおいて、
「微笑みかけること」が意味を持つのです。

人間という意識にとっての幸せとは、その終末の間際まで
「存在の受容」を受けることであって、
もっと拡大すればこの世界の終末の間際まで
「存在」を受容されることだろうと思います。

過去に生を受けたものすべてが「その生の受容」を望んできたのです。
だから私たちはこの世界を受容して次へ送ります。

自らの死に対してなお「笑う」ことができるならば、
それは社会システムの生へと意識を移行する準備が進んだことを意味します。
人間は社会よりも小さく、その定量的判断はできません。
しかし自らのアナロジーから、
その「定性的判断」が可能です。

他者に対する「存在の承認」としての「笑い顔」が必要です:
それは常に社会秩序をもたらすからです。
世界は対称にできています:
人はすべて「泣いて」生まれるのであれば、
人は「笑って」その生を閉じることが対称です。

4 件のコメント:

tomo さんのコメント...

人の死がとても嫌い、というところに、まずとても共感しました。

TVのニュースを久しぶりに見ると、まるで人の死がひとつの「ニュース」のように思えるし、まるで視聴者がそのニュースを望んでいるようにも感じられて、ああ、だからわたしはTVのニュースがキライだったんだと思い出します。

でも考えてみると、わたしがいちばん泣けるのは、「あふれる幸せ」とか「このうえなくハッピー」とかが凝縮されているような瞬間です。
たとえば、日曜日のお昼にキラキラな日差しの下でみんながニコニコ笑ってアイスクリームを食べる、みたいな風景に、グッときます。

この瞬間のかけがえのなさ、が目の前にある。そう思うのかもしれません。かけがえのなさは美しさにも通じていて、その美しさがわたしの心を揺さぶるようです。
たぶん、わたしの感情の針がいちばん触れるのは、「泣き笑い」の状態なのだと思います。

誰かを亡くしたひとにとって、その誰かがいないのはとても悲しい。そのひとともう話せないことが悲しい。そのひとに触れられないことが悲しい。でもその誰かと過ごした時の記憶は、わたしをうれしく、楽しくさせてくれるし、そのひとといた時のことを思い出せば、自然と笑顔になる。

大好きな人が死ぬということは、そんな「泣き笑い」の気持ちを知ることなんだ、とわたしは思いました。

でも、そういう気持ちは、その誰かが自分の良く知っている、大好きな人だからこそ生まれるのであって、ニュースで告げられる見知らぬ人では、そういう気持ちにはなれないでしょう。

そう考えれば、とりさんのお仕事もどんなにたいへんなことか、と思います。

柳田邦男というひとが、自分の息子の死に直面した経験から、「二人称の死」について論じています。二人称というときに前提とされているのは、三人称と一人称ですが、たぶんとりさんが直面しているのは、いわば二・五人称なのではと思います。

柳田邦男の『犠牲』、ご存知ですか?

とりさん さんのコメント...

>tomokoさん
お久しぶりです。今はどちらの国ですか?

「あふれる幸せ」で涙するというと
平松愛理の「マイセレナーデ」を思い出します。泣き笑いならスターダスト・レビューの「木蓮の涙」でしょうか。

泣き笑いはとても共感します。
越えられない透明なガラスの向こう側にある花を見つめているような感じで、
胸が詰まるような想いがするのです。

tomokoさんにコメントいただいて、
わたしの取り扱う「死」のテーマが
1人称から3人称まで揺れているような
感じがしているという表現に辿りつきました。
わたしの死の感覚には「関係ない死」というものがないようです。
それで全てをわたしの死のように引き受けるか、
あるいはわたしの死まで客観視するかの間で
結構揺れます。

竹を割ったように「関係ない」と言えたら
どんなに楽だろう、とふと思います。

Unknown さんのコメント...

私も、「笑う」とは何かを考え始めたのですが、なかなかいい答えが出てきません。言えるのは、「おかしい」と笑う。ただこれだけなのですが、では「おかしい」と感じるのは、人間のどんな心理に基づくものなのでしょうか。まず、対象が人または擬人化された対象であること。一種のギャップを感じたとき、特に、高い位置のものが低い位置に突如として落ちたとき。予想しなかった結末(ただし、深刻でなく、若干みじめな)に愛着を持てる人が至ったとき、など、一種の驚きに近い感情が作用しているように思えます。医学的、生理的、心理学的な定義はないのでしょうか?

添え状 さんのコメント...

とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。