今は何度目の開闢だろうか
今朝は海沿いの町にも霜が降りたようです。
極端で非現実的な状況を仮想することは、
混沌とした現実の中から特徴を取り出すことです。
加速器は「非現実」のエネルギー世界を作ることで
この世界では縮退した4つの力を個別に取り出して観測します。
この操作を人に当てはめると、
人の混沌とした日常を観察するためには
人にとって極端で非現実的な状況、
つまり人が生を終えるという状態を仮想することで
日常の生に含まれる要素を観察します。
昨年の年末は
仏教の本とクリシュナムルティの本を集め、
今年の年末は
がん医療のコミュニケーションスキルの本を集めました。
死について時折思うことがあります。
それは「死」という文字のほうが恐ろしくて、
実際に生を閉じる人を間近で接するときには
同じ恐ろしさはない、ということを不思議に思います。
死にゆく者のひとつの役目は、
生きている者に対して
それが恐ろしくないことを
証明して見せることではないだろうか、と思っています。
死というものが恐ろしいのではないのです:
わたしたちが恐れる「死」が表現するものは
ほとんどの場合の死に伴う苦痛と
自らの制御がままならない不全感に対する恐れです。
自然界での生活にとって苦痛とは主に死に近づくことであるから
階段は気をつけて降りることを覚えます。
ひとという生き物は苦痛を避けるよう
何十年もかけて必然的にその術を学んでいきます。
人間より大きな単位の生き物=システムとして「町」があります。
そして「町」はそれ自身の消滅を恐れます。
だから都市機能はその機能を果たす人が入れ替わることで
正常に生き続けます。
都市が生き物であるならば、
都市にはその終わりがあります。
それは「会社の終わらせ方」と同じような問題で
「都市の終わらせ方」というものを考える必要もあるだろう、と
思いました。
終わりを決めて何かを始める、ということは
言い換えるとゴールを決めてスタートを考えることと同じで、
目標とは「終わり」のことです。
生き物はその役割を
その生きているうちにだけ引き継がせることができます。
人の目標や都市機能や会社の方向は、
それらが生き物のような性質を持っているのであれば、
ある目標を目指している途中のエネルギーから次の目標は「新たに生じ」、
新たに生じたそれが
次の主軸となって走り出す、という性質を必ず持つはずです。
適切な長さの期間を持つ目標が必要です:
短すぎては次の目標を生み出す土壌が育たないし、
長すぎてはそれ自体の目標が叶わないまま終わってしまいます。
ボスという人としての形がいなくなってもうすぐ3年になります。
しかし意志を引き継いだ人たちによって
彼の願いは確実に叶いつつあります。
彼は人という形を失っただけのように思います。
彼の「意志」はそれ自体、立派に「生きている」のです。
宇宙は0秒が分からず、
今の宇宙が160億年ぐらいだと言われていますが、
この世の対称性から考えると負の時間があるはずで、
この宇宙は何度もビッグバンが起きていて、
その何回目かが今の宇宙である、と考えるのが
妥当ではないか、という気がしています。
たとえ人が自ら滅ぶ道を選んだとしても、
宇宙はそれ全体が開闢から「やり直す」のです:
そして次の宇宙が開かれたとき、
もう一度あなたにもわたしにも形が与えられるでしょう。
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