火曜日, 10月 16, 2007

知識は無料か有料か

人によって「心地よい」と思う音があるとすれば、
話よりも声が重要である場面があります。
声はその人の「言葉」から切り離せないものであって、
鳥が歌を歌うように人は歌を歌うものかもしれません。

「知識」は授かりものであるから、惜しまず与えよ、という人がいて、
「知識」は人類の労苦の結果だから対価を払って当然、という人がいます。
これについていまひとつ結論が出ず、いろいろと考えています。

「知識」はそれがある精度を持っていれば力になりえます。
歴史自体にもしはないのですが、
もし大航海時代の前に何らかの海路図があれば事故は減っていたし、
もし百年戦争の前に電子通信があったら
百年もかからずに通信を持っていた側の国が圧倒的勝利をもたらしたでしょう。

「物理的な力」に「価値」を見出すのはおそらく必要なことで、
それはこの世界がものでできていることに起因します。
一方で「知識」はいつも「諸刃の剣」であり続けました。
それが誰の手に渡され、どんな目的に使われるかが問題になります。

「正直」な人が「秘密」を保持しうるのか、
これは哲学の人が考えている命題です。
「聞かれたことに正しく答えること」をもって「正直」を定義するなら
「話さない」ということは正直ではありません。
これは「誠実」とは違うという意見が多分あり、
しかしそれなら
「何に基づいて話さないことを決定するか」を定めなければなりません。

盲導犬の試験で重要なものに「賢い不服従」というものがあり、
これは危険の迫る横断歩道へ主がゴーサインを出しても
盲導犬自身がその「言葉の命」に背くことを例として出されます。

この「直接的な命令への不服従」の論拠は短期的発想、
つまり「主に従うこと」が最重要である場合には成り立たず、
主という存在に対する長期的発想、つまり
「主を生かすこと」が最重要である場合にのみ成り立ちます。

個人を生かすということと社会を生かすということは
必ずしも一致しない場合があります。
個人すべてを生かせば社会を生かすことになるのですが、
社会システムを維持するためには
個人すべてを生かすようにデザインできません。

社会を生かすようなデザインは「最大公約数」であるべきで、
たとえばダムの建設などがその例で、
古い町並みを水の底に沈めるのだから、
それによって救われない人の悲しみを生みます。
しかしダムが必要なのは「それだけ人が増えすぎた」からであって、
増えたこと自体に問題があるのであれば
それは「増えた人間」を構成する人間すべてに問題の一端があります。

知識は循環をもたらすようにデザインする力として使われれば
よい効果として認められるのだろうか、とふと思います。
それは太陽の風によって飛ばされることなく、
月の引力によって奪われることのない、
地球の重力に抱きとめられた存在が繰り返し続けてきた
なんらかの循環の歴史をたどることでもあるように思います。

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