すべり台を怖がってはいけない
構成員の性質が非常に異なる集団があって、
その集団にはひとつの名前がついている場合、
わたしたちはこれを大きい分散と呼びます。
この場合、「アメリカは」とか「ヨーロッパは」という表現から始まる説明は
文書上限りなく無効に近いことになります。
わたしたちが望むと望まざるとに関わらず、
「性質の似た、似たような容姿と服装と言語をもつあつまり」があり、
環境が人間の生活様式を多様化させてしまうので、
「国境」はなくても「国」の概念は存在します。
「国=くに」が必要なくなったとしても、
今のところ人間という種は単細胞生物のように
単一と環境の組み合わせで生きることができず、
集団で生きるような能力と結果が淘汰の結果生じました。
人間に「何らかのまとまりが必要である」のは意識の分裂が理由ではなく、
ただ人間が単細胞生物ではないという理由から生じるものです。
昨日生物学者と話をしていて、
人間にはたとえそれが仮にでも目に見える方向や指針が必要であって、
たとえば敬虔の表現を偶像と動物と人間と文書から選ぶなら
一体どれが一番ましなのだろうかというような話題を出してみました。
どれもこれも欠点はあるのはよく分かっていて、
偶像なら破壊や劣化や宝物化などが問題になり、
動物なら穢れや生態系のアンバランスが問題になり、
人間ならその代の継承や悪意性の排除機構が問題になり、
文書なら理解の程度や誤訳や時代背景の喪失などが問題になります。
導くもの達の一部は、必ず形に限界があるを知りながら、
それでも「知覚可能な方向」を表すために偶像を作るひとと、
その作られた偶像によって「それに無上の価値を感じる錯覚」を引き起こす人が
この世界には同時に現れます。
知覚可能で強力な方法がなければ人は決して纏まることができず、
しかしその方法自体が時間が経つと今度は人を振り回してしまいます。
わたしは特に数学のエッセンスを聞いたことのない人が、
仏教の言う「カミハデタラメデアル」という台詞を誤用することをとても心配します。
でたらめとは「まったく何の相関もない」のではなく、
確率統計のように「集団の性質を規定する法則は厳密に存在するが、
個別の現象に対して、特に連続性に対しては無相関な抽出結果を持つ」
という理解がなされないまま、
そして法則を少しでも明らかにする明確なひとつの方法は
「数多く試してみる」であることも理解されるはずであるのに、
「分からないからどうしようもない」と簡単に思考放棄してしまうことが多いからです。
しかしだったらなぜこの世界には「揺らぎ」や「広がり」などという
妙なものが存在するのか、とそれでもわたしは思います。
「人格神がいる証明はできない」というのはアインシュタインの台詞ですが、
この世界が「人格」を持つかどうかは分からなくても
人間は「人格」以上の知性を一切思いつくことができません。
この世界の「なにか」を擬人化してしまうのは
もし人間がその存在に価値を置くならば不可避に起こる現象で、
そしてアインシュタインが「神はさいころを振らない」、つまり
量子論の説明に最後まで「信じない」を貫いたのは、
彼がそれを理解できなかったからではなく、
「この世界の最後がでたらめであるという結論などあってはならない」という
信念がそうさせたのだと思っています。
わたしには思考を放棄することはできません。
できることは生ある限り「分からない」を「分かる」に変えていくことだけです。
0 件のコメント:
コメントを投稿