水曜日, 6月 15, 2005

社会は厳しいと誰が決めた

いつも取り扱いに困る書類が出てきたので、
手動式シュレッダーなど買ってみました。


情報の取り扱いを今になって「情報化社会になった」と表現されるのですが、
人の歴史はその始まりからすべからく情報化社会です。
人間が自然に対する本能的な記憶を消してしまったのは、
狩猟時代から宇宙時代まで、劇的に変わりうる生活スタイルに
いつも「その世代が」生きている間に順応できるよう
固定観念を振り払ったからではないかと思っています。

小さい頃から、自分よりも年上の人たちは、
本当に口を揃えて「社会は厳しい」という言葉を話していました。
そしてわたしは、「だったら厳しくしなければいいのに」と
ずっと思い続けてきました。

人は共通のある目標に向かうときには
協力者として人を求めますが、
拮抗するような目標が与えられた場合は
挑戦者として人を排除します。

機械や電子頭脳がする仕事を人の数に直すと、
おそらく今の地球は6兆人分とかそれよりはるかに多い
労働力があります。
人が工場制手工業を思いついた時点で、
人の労働力が人数の一次に比例しないことに気がついています。

人は集まると、
あっという間に労働力が過剰になってしまうのです。
だから機械がなくても
巨大なギリシャ文明もエジプト文明も成立したのです。

そうすると、本当は
生きていくだけなら厳しくはないはずなんです。

自然淘汰のシステムはこれと別に機能します。
住む土地が変わっても、文化が変わっても、
生きていければ良いと決めてしまえばいいのに、
自分の文化や過去や、たくさんのものに
自分のよりどころを求めようとします。
「できるだけたくさん持とう」とするのです。

物を捨てるのが苦手だったわたしが
物を捨てられるようになったのは、
もう生産力は過剰であること、
簡単に生産力は過剰になることが身にしみて分かったからです。
捨てないと作っている人が困るのです。

競争はしない、自分はただ興味のためにやっているのだと
時々話をすると、
それはできる人が言うきれいごとだ、という返事が
時々返ってきます。
この言葉はある種の正しさを含んでいて、
それは自分が下手でもずっと続けられるだろうか、と自問するときに
もしかしたらやめてしまうかもしれない、と
どこかで感じるからです。

自分は勝つことが喜びではない、と
表現しなければならなかったのかもしれません。
めぐりめぐってこの話は、
社会は厳しくないようにしよう、という目標を立てたいなという
わたしの願いになります。

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