月曜日, 7月 11, 2005

表現するために勉強する

在庫管理という考え方があって、
「できるだけ多く持つ」ことが必ずしも
良い結果を生まないという前提で行う考え方が
結構気に入っています。
どんなに高級な飛行機でも、
プライベートビーチまでは積んでいないのです。

なぜ勉強しなければならないか、を
問われて、きちんと答えられるか?という「質問」が
よくメディアには登場します。
そのメディア自体は、実はその「質問」に対する
「回答」を準備していない場合がほとんどで、
なんだか禅問答のように考えさせられ続けるが、
答えが曖昧で勝手に申し訳ない気持ちにさせられてしまう、
どうにもたちの悪い質問です。

比較として少し違う点を挙げると、
禅問答にも何らかの回答は準備されています。 
そしてその回答が準備されたものと異なっていても、
筋が通っていれば正解です。

わたしは「大人のひと」からよく
いたずらにこの類の質問をされてきた気がしますが、
あまり当を得た回答を聞いたためしがありません。

ずいぶん前に知り合った友達の話で、
「いい人間」という表現はあるけれど、
「大人」という表現はない、ということを
聞いたことがあります。
大人といっても良いひとも悪い人もいる、
だから大人と呼ばれるからといって
それ自体にあまり意味はない、という
表現だったと思います。

勉強する意味については
現時点では次のような答えを持っています。

生きるというのは情報の受け渡しでできているもので、
それは遺伝子であったり文化であったり
さまざまなのですが、
地球に対して十分小さな個々の存在が生きていくためには
その仕掛けが分かっているほうが生きやすいのです。

第1次産業だったら勉強はいらないというのも
全く正しくなくて、
自然を観察する力が必要で、
よく実る方法を蓄積していかなければなりません。

芸術だったら勉強が必要ないというのも
全く正しくなくて、
個展を開くには社会のシステムと
少なくともコンタクトを取る必要があるし、
予算を集めるのには企画力が必要です。

他人と「何らかの方法で」情報をやり取りする手段として
文字の取り扱いは必要だし、
物の取り扱いのために数学が必要です。

そしてそれらの結果を伝える表現方法が必要なのです。

「社会契約論」という言葉がありますが、
社会を人が創造によって作りだし、
それに縛られるようになったのではなくて、
人はもともと社会を作って生活する性質のために
さまざまな関係性が勝手に生じてしまう生き物なのです。

知性のため、ホワイトカラーのため、の
いずれも正解ではなく、
人という生き物がその時代で生きていくために
世界の仕掛けをその都度覚えていく、ということが
「勉強」をする意味なのだと考えています。

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