小説家=シミュレーションプログラマ
一日計算機でコードを書いていると、
それは日本語として読むことができず、
ほとんど言葉を話すことがありません。
これと同様に、
数式を展開している間も表現できる言葉になりません。
脳科学の本では、
感情は言葉によってできているという
一見逆説的な結論が導かれていて、
言葉にならないものの取り扱いは
もともとかなり難しいのではないかと最近思っています。
「ライフゲーム」とか「セルゲーム」と呼ばれる
自己発展型シミュレーションコードがあります。
格子のます目の中には一つずつライフを入れることができて、
人は初期状態を決められます。
一度決めてしまうと、後は3セル×3セルの情報を1単位として
その単位中にライフが1つだと消滅、
2つだと現状維持、
3つだと増加、
4つ以上だと消滅という決まりに沿って
1プロセスずつ処理されていきます。
このゲームが面白いのは、
うまい初期条件を設定すると、
ライフの発展が見事な幾何学模様を描いたりすることです。
小池真理子「恋」のあとがきを読みながら、
「突然ひらめいた人物設定」のくだりは
このライフゲームの話に良く似ているなと思いました。
小説家はシミュレーション・プログラマと同じだと思います。
短く終わる初期条件もあれば、
長編になる初期条件もあります。
途中で人物に手を加えて設定をかきまぜることで
さらに混沌とした状態を作ることもできます。
しかし小説には終わりがなければならないので、
混沌とした模様の中から最後には規則的な絵柄が現れてきて、
綺麗に消滅するか、
無限維持状態を保つか、
循環状態にするかをしなければなりません。
「人物が活きている」小説は
まるで作者が演者の行動を描写している感じがして、
作者が操り人形のように演者を動かしている感じがしません。
小説家はその心の中で彼らが生きる場所を与え、
あとは脳が自己発展的にそれを追う、
その様子を作者が書きとめていく、
こんなイメージを持つようになりました。
シミュレーションが実験よりも良いところは、
どんなパラメータも意のままに覗けるところで、
小説がドキュメントより優れるとしたら、
日常では覗けない全ての人物の心の動きが
明示的に表現されることにあるのだと思っています。
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