金曜日, 7月 08, 2005

「最重要」と「リスクメーカー」

沖縄そばです。

沖縄は豚肉をおいしく食べる文化なので
脂の部分に旨みを感じられる食感が必要です。

今日は似ているものの話の続きです。

最重要課題、とされるものの取り扱いが、
なぜいつも厳重に鍵をかけて閉じ込めた後で
腫れ物をさわるような方法しかないのかが
気になります。

最重要であることと、それが内包するリスクが高いこととは
必ずしも一致しないと思っています。
たとえば、官庁の仕事が止まってはいけないのであれば
普段から組織業務を冗長化してバックアップを作っておけば
何とかなるのであって、
責任を負った人が倒れないようにする、は
あまり優れた解だとは思いません。

長嶋さんが五輪野球の監督になって、
ほとんど神様のように扱われてたのは
別に構わないのですが、
倒れるまで責任を負わなければならない、というのは
やっぱりかわいそうな気がします。
そこまで尊敬するのであれば、
なぜ彼の肩代わりをしようとしないのかが
わたしには理解できないのです。

困ったときの神頼み、とはよく言いますが、
日本人には「人間を超えた存在」としての
神という概念はほとんどなく、
「神技」的な能力を持つ「現人神」のような人間、
というのが知覚できる最高の存在だと思います。

信じる存在としてよく似ているのですが、
西洋的な神は形がないゆえに心を支えて、
信じる者自身に力が与えられるのに対し、
現人神は形があるゆえに現実を変える力が与えられていて、
信じるもの自身の願いを本当に叶えてくれないかという
即物的な願いになってしまいます。

この国が「他人に」求める人間の質は
西洋よりもはるかに高くて、
人間以外のものに心の支点を置かない限り
人間そのものが苦しい思いをすると感じています。
かといって西洋的な神を取り入れたところで
それは木に竹を接ぐような作業だとも思っています。
なぜそういう神を作り出すまでに至ったかが
日本の中だけで知覚できる発想では
理解できないと考えるからです。

「科学信仰」という言葉があって、
科学の援用結果を丸ごと信じてしまうことを指します。
「絶対に正しい」というのが日本人には安心される言葉のようで、
深夜のテレビショッピングなどは
まさに「科学信仰」にぶら下がったような商品説明をしています。

西洋的な発想では、
「科学」を通して「神は本当にいるのか」を探しているのであって、
科学はその道筋に至る為に積み上げる階段のようなものです。
それゆえ、実験が今までの理論を否定すれば
科学は容易に考えの変更を迫られます。
しかし科学そのものを信仰してしまった場合、
「変わり行く科学の姿」をただ信じて受け入れるような
安易な結果を招きかねません。

と「西洋」について良さそうな事ばかり挙げましたが、
彼らが神の概念を捨ててしまった場合は
もう誰にもその行動を止められない
危険な人間が出来上がります。
欧米文化がやってきて凶悪犯罪が増える、と
ニュースは脅したりしますが、
日本人はすべての人が
「他人をリファレンスにする」という
モラルの鎖をつけられているので、
彼らのように常軌を逸するところまでは行けません。

他人をリファレンスにする、といえば
魚の群れや鳥の集団が作る行動は
「近くの仲間とつかず離れずし、
移動の方向を合わせようとする」という規則性だけで
まるで統一した意思による命令があるように感じるほどの
複雑な動きをするのだと言います。
これは考える各単位に意思を持たせた
複雑系の概念を持ち込むことになります。

小学校の頃の1年の目標には
「自分で考え」という一文があったのですが、
本当に自分で考えると
日本では異端視されるか象徴になるかの
どちらかしかないんじゃないかと心配する
今日この頃でした。

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