金曜日, 11月 18, 2005

教えてもらいたかったこと

デスクの中の余っていたペンが
最近増えなくなりました。
そういえば身の回りのものも増えなくなりました。
ちょっとした意識改革です。

情報に関して最近さまざまなことを思います。
会社に入るまで会社のことが分からないと心配する
卒業間際の大学生を見ながら、
それは会社が決して積極的には教えようとしないからだろうと
思います。
「門戸は何らかの方法で開いてるのだから
だったら知るよう努力すればいいじゃないか」と言われると
ひどく反発したくなるのは、
「情報開示」と言ってただ雑文交じりの膨大な資料庫の
鍵を開けただけの状態のお役所のある課と同じだからで、
それが誰にでも通じる積極的な開示ではないからです。
特殊な方法、先輩を頼るとか裏口から入るとか
そういう方法は決して「門戸が開いている」とは言いません。

メディア・リテラシーの重要性を思います。
「本人のためにならない」とか分かったような理由で
面倒な気持ちを隠しながらお茶を濁したりせずに、
読みやすく、分かりやすいということを
なぜもっと純粋に追求しないのかと思うことがあります。
禅の思想だか問答なのか知りませんが、
それはひどく人を不公平に、そして不幸せにします。

自分でやらなければ分からないこと、というのは
確かに存在します。
覚える過程で手を使い、頭を使うのですが、
しかし先に手順を聞いたからといって
それが中途半端になることなど少しもありません。
洗練された情報によってより早く理解できるだけです。
物理がここまで進んだのは、
遠回りせずに知識を積み重ねる方法を選択したからです。

これらがどこかで「きれいごと」と言われるのも
どこかで感じています。
人はその淘汰を乗り切るために
個人としては情報戦を繰り広げているからです。
しかしチームであるという意識があるならば
積極的に開示することがプラスになる事だってあります。

大事なのは、
何ができるかではなく、できるようになったことで
一体何が表現できるかにあります。
やってみなければわからない、という言葉は、
半分は本当で、半分は嘘です。
だから何も教えずにただやってごらん、と言うのは
少しも足しになりません。

自分が知らずに困り果てたことがたくさんあったので、
教えて欲しい、という気持ちに
可能な限り応えてあげたいといつも思います。
いざと言うときには
とにかく今自分が持っているものと知っていることを
総動員して事に当たるもので、
知るということはよりよい選択を導くための力です。

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