火曜日, 11月 22, 2005

redundancy

パルス発生器の主電源が入らなくなりました。
予備機を当てて実験を続けています。

小集団の中での個人と、
大集団の中での個人は振る舞いとして異なります。
小集団でキャンプに行ってテントを持ってきた人が
誰なのかはすぐ分かりますが、
大集団で株の売り買いをして
値下げ傾向に導いた人は特定できません。

同じ集団のためとはいっても、
世の中のためになることをしようと考えたときに、
いきなり「汚職のない世の中を作る」とか考えても
うまくは行かず、まず自分が不正のない政治家になるところから
始めなければなりません。
そして自分も一人の人間であるなら、
「不正のない政治家とある政治家」のバランスを
ひとこま変えるのが精一杯かもしれないのです。

たくさんの集団の中では
良い意見ばかりもたれないことがあります。
amazonの書評などを読んでいると、
評論というのは感性によるところが大きいせいか
良いとか悪いとか好き勝手に書かれています。

良い意見ばかりもたれずに過ごしていくことの
難しさを思います。
それ自体はいつでも起こりうることなのですが、
好ましくない反応に対して
無視して過ごすわけにもいかず、
かといって自省ばかりして過ごすわけにもいきません。

何かの行動原理を最終的に興味へと結びつけることに
時折必要性と疑問を同時に感じます。
そこにある必要性があれば決めるのは楽なので
何らかの必要性を探してしまうことがあります。
50:50の大賛成と大反対があったときに、
それでも一歩を踏み出せるかどうかを悩みます。

この国の人らしい感情であれば
50:50の時に踏み出すのはきっとためらいます。
そして行動そのものにも正の側面と負の側面があるとすれば
行動というもの自体はリスクの大きなことです。

しかしためらうことというのは
重要であるけれども行動に移すには
まだ時間があると思っているか、
あるいはどちらでも構わないと感じるようなことかの
どちらかです。
しきたりやマナーというものでその場であたふた悩んでいるのは
それが「本当はどちらでもいい」ことの
明確な表れだと思います。

食器を持って食べてはいけない中国、
食器を持って食べなければならない日本、
それはどちらがよいという言葉では
本来説明をしてはいけないものです。
だからテレビで「マナーの先生」とやらが
偉そうに正負善悪の番人のようなご口上を述べているのを見ると
なんだか腹が立ってきます。

盲目的に従うことは極めて不自由でありながら、
他方で非常に心地の良いものだろうと思います。

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