月曜日, 11月 28, 2005

hardware, software, data

朝3時に目が覚めました。
少し書き物をしてもう少し眠ります。
機械に関して言えばハードウェアの得意な日本です。
最近は良質なソフトも増えていますが、
良質で安価なデータが少ないと思います。

需要と供給、の話で言えば、
需要が多ければ供給する値段が高くなります。
ものやソフト、つまり目に見えるものに関しては
需要と供給というのは成り立つのですが、
データに関しては
なかなか需要と供給が成り立っているとはいえません。

もう少し深く入り込めば、
需要と供給自体は成り立っているのかもしれませんが、
データが広く流通していないので
おのずと値段が高くなります。

学術書の類で、
値段を高くすると売れなくなるから、と言います。
確かに辞書以外で1万円以上する本が飛ぶように売れることはないのですが、
しかし外国の学術書なんかは300ドルでも平気で売っていたりして、
それを買う人も多くいます。
一方でネットに広まる情報では無償で手に入るものが充実していて、
それらのバランスは一体どこから来るのかと不思議な気分になります。

休暇になると日光浴をしながらひたすらペーパーバックを読んでいる、
そんな話を聞くと、
日本で思われがちな本の虫とか雑学おたくとかではなくて、
活字に親しみを覚えるという肯定的な意味を
もっと前面に出してもいいかもしれません。

生きた知識、という言葉について考えます。
どんなものを「生きた知識」と読んでいるかというと、
それは実体化して何かの役に立つ、という暗喩を含むような気がします。
役に立つは利益を得るとかいう経済ベースの話ではなく、
不安定な自分を支えたり人に快い感情を与えるものも
生きた知識だと思います。

本宮ひろ志の話の中に、
漫画家が絵が描けるのは当たり前で、
その絵で何を伝えたいかが問題なんだ、という一節があって、
時折思い出します。
ただ、こういう言葉を聞くと、認められる絵が描けなければ
公表する意味や価値がないと連想してしまうことが
表現の量を少なくしてしまうのだと考えます。

何かを下手な人間は、表現が許されない、
こう書き切ってしまうと、「そんなことはない」と
反応が返ってきそうですが、
今でもそういう雰囲気は強くあります。
そしてそれは自分の中にも強い意識としてあるものです。

下手なところを見せて笑われると傷つく、
その「傷ついたもの」は何なのだろうと思います。
下手だというその結果、
へんてこな絵とか調子の外れた歌とか、を見て
その行為自体や状況という非人間的な現象を笑っているのか、
それともその行為を行った自分自身というもの、
つまり人間的な価値の薄さを笑っているのか、
これがよく混在しています。

持つ者はさらに与えられる、という言葉があって、
この意味をよく考えることがあります。
最初に人より少し得意であったものが
練習を重ねていくうちに上手になっていくという過程でもありますが、
最初に持たないものについての言及がありません。
持たない者だって与えられるようチャンスが必要です。

最初に少し持っている者が続けられるのは、
自分の行動に価値があると信じられるからで、
また周りもそういう視線を送るからだと思います。
少し持っている、持っていないの観念が比喩的なものならば、
ほんの少し持っているところからでも始められる、
そんな風に思えたらいいなと感じます。

あれほど流行ったのにわたしがちっとも知らないのが
ミスチルの歌で、それは最初の流行に乗れなかったから
そのまま追いかけられずにいたもののひとつです。
その手の苦手意識というのはたくさんあって、
苦手意識を持つと思考を停めてしまったように前へ進みません。
後追いするとなんだかかっこ悪く感じるものですが、
それが好きだと公言できなくても
せめて曲ぐらい聞いてみればよかっただろうにと
ずいぶん後悔をしています。

後追いをかっこ悪いと感じるのは、
知識の量を勝った負けたと優劣で決める傾向のせいでしょうか。

物と知識の決定的な違いは、
物が使うと減ってしまうのに対して、
知識は使うほど増えていくことにあります。
100%満足する結果でなくても、途中であっても、
行動を起こしたことを評価する、
そんな気持ちがもっと広まればいいと願い、
そして自分の意識もそう近づけたらいいなと願います。

2 件のコメント:

Maria Kazamori さんのコメント...

とりさん、こんにちは。
少し似たようなことを、ちょうど考えていました。

12/だった昨日から子どもたちがレゴのアドベントカレンダーの小窓を開け始めたのですが、そこにいろいろな国の言葉で「24種類のプレゼントが入っています」と書いてありるんです。英語ではgiftという単語が使われていました。

そこでふっと聖書のタラント(talent)の逸話などを思い出し、英語では「才能」とか「ほかの人とはちょっと違う能力」という意味でも使われるこのgiftという言葉は、なるほどそういうわけだったのか、と突然に合点がいったのです。

この世の中に生を受けて、基本的な人権と文化活動が保証されているラインが(とりあえず現代の日本での)デフォルトの工場出荷時の状態だったとすると、ちょっと絵が上手だったり、ちょっと暗記する力があったり、ちょっとひとより高くジャンプできたりといったそれぞれの個性や能力は、まさに仕上げに神さま(or whatever)がぱらぱらっとまき散らしたギフトだったんだなぁ、と。

a little extra something goodなギフトなら、「ありがとう」って言って素直に喜んで受け取ればいいんだな、って思いました。

とりさん さんのコメント...

風杜さんこんにちは。
giftを与えられたものはそれを役立てなければならないと考えている、という風杜さんの日記の一節を思い出します。日本の「道」的思想も絡んでいるのかもしれませんが、時に「神は人が喜びのうちに生きることを望む」という一言を忘れてしまいそうになります。
giftとpresent、
賜り物と贈り物の違いのようですね。
自分がgiftに持つイメージは、所有物としてではなくて、託されたもののような気がします。
ある日自分の時間が終わったら、それをもう一度神の座へ戻そうと思うのです。