水曜日, 12月 07, 2005

器用さ、不器用さの感覚

この1ヶ月、外見的には変化がなく、
内面的な変化ばかりが起こっています。
目新しい何かも誇るような話もない、こういうのを
平凡と呼ばれる状態なのかとも思いますが、
本人の意識は至って満たされています。

本を読みながら、時折気になる言葉の中に
馬鹿になれ、という表現があります。
似た表現として、不器用でもいいから
愚直にやり通すこと、とか
ある種の非効率さが必要なのだという言葉もあります。

この表現、なにか的を得たような、
今ひとつ理解へ至らない言葉のようで、
少し考えを進めます。

器用であることで困ることは概ねありません。
ほとんどのことは不器用さによって困っていて、
思ったことが言えないとか、やりたいことが分からないとか、
自分の気持ちを前向きに転化できないとか、
そういう不可能性というものに結びついているからです。

器用であること自体が問題になるのは、
どんな問題にも「スマートな解決」というものが
存在している、という連想へと結びついてしまうことに
あるのではないかと思います。

目の前にある問題が、霧が晴れたように
前へ進むなら、どれほどいいだろう、と思う気持ちは、
感情のどこかに焦りを抱えています。
それで、自分が今できる器用なことの組み合わせによって
その問題がスマートに解決できないかと考えます。

ところがいくつかの問題、
自分にとって新しいことや
必ず時間がかかると分かる事象に対しては
現在の手段の組み合わせでは解決できません。
たとえば、
ドミノ倒しの駒を一瞬で並べる方法は
どこにも存在しないのです。

ところが全ての方法に「不器用な方法」を持ち込むことには
大きな問題があります。
不器用な方法を続けていくと、次第にその中に潜む
「規則的な原理」というものが現れてきて、
ある閾値を越えると不器用さに対する認識を
改めなければならない転換点が訪れます。

未知のこと、というのは
何も壮大なことである必要はなくて、
じゃんけんをして勝つ、という命題にも
未知のことが含まれます。

じゃんけんをして一生勝ち続けることがないように、
未知のことに挑むときに
器用な方法、不器用な方法のどちらで突破できるかは
事前に知らされておらず、
選んだ手段が外れてしまうことは必ずあります。

しかしどちらの方法を使ったとしても、
目標は「未知のことを突破する」ことであって、
それさえ叶えばどちらの手段であってもいいのです。

不器用な方法を使ったときに、
後で器用な方法に気が付いてもがっかりする必要はないし、
器用な方法が通らなかったからと言って
不器用な方法を選べなかったと自分を責める必要はありません。

人は過ち、神は赦す、
過ち、というものへの認識を
あとスプーンひと匙だけ緩めることができたなら
それだけで人は幸せになれるかもしれないのです。

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