月曜日, 12月 12, 2005

物言わぬ肝に思いを寄せて

科学をやっているものは2種類いて、
SFが好きなものと、
SFより現実を選んでいるものとに分けられる気がします。
SFを読んでいてどうしても気になることは、
物理的には正しくないことがたくさん現れるからです。

人間関係の世界なら、想像の範囲内で
なんでもありかもしれませんが、
何もしないのにりんごが地に落ちずに
空へ吸い込まれたりはしないのです。

体のあらゆる部位に意識が届くかというと、
感覚のない部分については意識ができません。

明確に意識できるのは胃とか心臓で、
鼓動の様子とかストレスで胃が痛くなったりとか
自分で知覚ができます。

脳は一見知覚できそうですが、
たしか感覚神経はなかったような記憶があります。
だから脳に関していえば、周辺部の知覚によって
間接的に分かる、といったところです。

全く意識できないのが肝臓です。
体の大きい割合を占めるのに、調子が良くても悪くても
痛みや苦しみを感じないのです。

それ自体は確かに苦しくないのですが、
肝臓の調子が悪いと全身に影響が出ます。
そういうわけで、「自分の肝臓が悪いのではないか」という
意識は脳と同じで間接的にしか分かりません。

ところが間接的にしか分からないはずなのに、
肝を冷やす、肝心かなめ、肝の据わったなど
肝の表現はたくさん見られます。
英語でliverだと
liverishで「肝臓の悪い人」という表現があるぐらいで
それほど意識的に使われてはいないように思います。

ちょっとした演繹でいうと、
全ての臓器は時折不具合になるのであれば、
肝臓だって調子の良いときと悪いときがあります。
ところが調子の悪さが痛みや違和感として感じられないので
原因探しが路頭に迷います。

バイオリズムと言う言葉があって、
長い周期で気分や体調が変化することを指しますが、
肝臓の調子がバイオリズムを決めていたとしたら
自分でわからなくても納得が行くようにも考えます。

感覚がない部位に対して
先人がちゃんと意識するよう用意していたというのは
とてもありがたいことです。

この物言わぬ部位に意識を寄せてみようと思います。
丹田という場所はへその下だとかいうのですが、
それは肝を含むおなか周りの意識を指すのかもしれません。

人間は意識によって自分の一部を制御下におくことが出来る、
これはトレーニングをする際には使われる筋肉を意識すると
効果が上がるという例で証明されています。
意識というものを肝においたら、
一体どうなるのでしょうか、という言葉は
一見ことば遊びのようで楽しくもあります。

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