日曜日, 12月 25, 2005

アンチテーゼ

スーパーで保存食をたくさん買う気分になると、
それは部屋にこもって仕事をする、という
心の準備が始まったことを意味します。
人は行動として体を動かす10秒以上前には
気持ちの準備がされるのだそうで、
現在の意識というものの不思議さを思います。

この世で確かなことというのは
それっぽく用意されているのですが、
万物流転ということ以上に正しいものはない気がします。
それは法や道徳やそういういろいろが定めた人間的な正しさではなく、
地上では林檎が落ちるのと同じ程度の確かさのものです。
物理的に正確に言えば、空間と時間は同じ価値の存在ですが、
時間だけは進みっぱなしで戻ることができません。

ASKAの「晴天を誉めるなら夕暮れを待て」の歌詞が好きです。
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=55123
青い空は誉める、雨は面倒に思う、
本当にそう思うときと、観念で思っているときがあります。
観念が自動的に作る循環の真偽をを見極めたいとよく思います。
突然降り出した大雨が
忘れられない思い出になる事だってあるのです。

ザ・テレビジョンの表紙の話を聞いたことがあって、
以前は満面の笑みだけを採用していたのだけれど、
最近はすまし顔も使うようになったのだそうです。
良い流れだな、と思います。

写真家が残す写真が膨大な試作の結果の上に成り立つ、
時折このことを思い出します。
本当の「一瞬」はgiftとして与えられるもので、
人間が意図しただけで作れるものではないのです。

NHKの公開録画とかラジオ体操とかに立ち会ったことがあって、
「盛り上がってますか」と
約束事のように掛け声をかけられるのですが、
この言葉は「当然盛り上がりますよね」という答えを期待されていて、
問われれば問われるほど
シンクロせず盛り上がっていない自分を強く意識してしまって
盛り上がるきっかけを全く失ってしまいます。
心のベクトルの急変更がききません。

寒い朝にココアが飲みたくて
ミルクを早く温めたいのですが、
強火にかけると百発百中で焦げます。
だからミルクを温めるのには必ず時間がかかります。

笑いが良い写りならそれで構わないし、
撮る写真が笑い顔でなくてもいいと思います。
満面のスマイルが良い、という連想もまた観念的なものです。
すました顔からほんのり覗く笑みが綺麗な人だっています。

スープを皿に盛りたいときに、
スープが冷めるからといって沸かしてしまうと
香りが飛んでしまいます。
温かく香りの良いスープを最後まで楽しみたいなら
より注意を向けるべきはスープ自体ではなく
厚いボウルを熱湯で温めておくことにあります。

無用の用、という言葉もとても好きです。
一見無用や無駄に見える何かは、
それがあることによって
支えられている何かがある、という意味で、
英語で言うとセレンディピティ=serendipityの思想に
なにかつながるものを感じます。

西洋と東洋の大きな違いは、
神が人を統治するか、人が人を統治するかという意識に
あるのではないかと思ったりしています。
そして神と言う象徴を持ってくることによって
人はみな平等だという意識が生まれるのですが、
最終的な統治で人の統治に読み替えるシステムが必要で、
この点で社会の解釈や理解が大きくこじれてしまいます。
宇宙人によって統治されるようになったら、
人という生き物は団結できるのでしょうか。

絶対的な王を立てた中国、象徴的な神格を分離した日本、
どちらにも最終的には人の統治という解釈があって、
なまなましいけれど正直な解釈が気に入っています。

敢えて科学がこの見解に挑むならば、
人間のように感情や道徳を定義するような「人間みたいな」神は
いないとし、
しかし人間と言う存在を超えた何かがあるだろうという解釈は
十分考えられる、とすべきだと思います。

日本習字の原田観峰さんも
「神はもう[あ]」という名前でいいじゃないか、
それを修飾すればするほど本来の定義から逸れていく」と
いうくだりの文を載せていたことがあって、
なるほどと納得したことがあります。

神は教えられるものではなく、
勝手に心に生じる気持ち、というぐらいのあやふやさだとしたら、
死ぬまで神が生じない人だっているわけで、
世界の混沌としたまだら模様はいつまでも続きます。

0 件のコメント: