金曜日, 9月 23, 2005

街歩きの方法論

何も知らずに街に行く、
何かを調べて街に行く

書を捨てよ、街へ出ようの一節から考えると、
自分の目で見よう、という言葉が印象に残ります。

「自分の目で見る」という言葉は
分かったような分からないような言葉なので
少し説明を試みます。

自分ではない目というのは他人の目で、
主には聞いたり読んだりした「人の話」の印象の部分に
自分の印象が支配的に影響されることを指します。

歴史書には、
起こったことを書いた部分と、論や観を書いた部分とがあります。

起こったことについて書かれた場合、
その出来事に関連した場所に注目する能力が上がりますが、
それ以外の視点が忘れられがちになります。

論や観について書かれた場合、
感情の共有によって見るもの自体の主観的な印象に
大きく影響を与えてしまいます。

日常において、
言葉自体にとらわれる、という現象がよく起こっているのに、
なかなかそれを拭うことができません。
言葉が独り歩きする、それは
ものと言葉は必ずしも一対一で結ばれていないからです。

「花」という言葉があって、
最初は植物の花に対しての単なる呼び名であったものが、
そのうち華やかさを表す印象まで帯びてくると
使われ方が変わってきます。
かけことばや短歌の隠喩などは
言葉の持つ複数の意味を多面的に使った結果です。

日本にとって西洋から外的にもたらされたもっとも強い感覚は
「絶対観」だと思っています。
それは技術として受け入れ、非常に器用に操れるようになったのですが、
絶対観の欠点を補正する哲学の導入バランス、
つまり人間の不完全性への理解が不十分だったために
ある意味で人間性という感覚がつかめなくなってしまいました。

絶対観はしばしば単一観と混同されます。
本来は複数の観点が有機的に繋がっていても、
それらが全体として矛盾なく閉じていれば絶対なのです。

数学オンチな側面も大きく作用していると考えることがあります。
数学は演繹の方法によって解が変わることは
確かにありませんが、
数式がどう表現されるかによって
物理的表現の意味が大きく変わります。

めぐりめぐってこの話のまとめは、
街歩きの前に書を読む、
これがうまく行くためには
得た情報の力に対峙できる、ということが必要です。

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