何者にもなれていないわたし
ボールペンは、なぜか
外国製の、イベントでもらうおまけみたいな
非常に安いものがとても書きやすいと感じます。
わたしは何者にもなれていない、
そんな気持ちがいつもあります。
なくなるのかどうかは分かりません。
とても強く意識したのは学部を出てすぐのことで、
目の前にある仕事というものの広さと
それに対して自分ができることの少なさに
ショックを受けています。
自信がもてればいいな、と思うのですが、
気持ちには影も形もないので
何かを成し遂げたということが自信になるのかなと
焦って過ごす日々がたびたび訪れます。
しかし本当に、
自分は相変わらず何もできないのだろうかと問うと、
あの頃できなかったたくさんのことができるようになり、
あの頃知らなかったたくさんのことを知っています。
自分を明かす何かを必要とするのは、
主に人と向き合うときに用意する盾のようなものです。
それが必要なのは、立派な飾りをつけて
いい印象を与えたいと願うためだと思います。
何もなくても、素のままの自分でいいんだ、という
台詞がありますが、
社交界に出るのにスーツなしではおさまりがつかないのであって、
華美ではなくてもそれなりの準備は必要です。
わたしにとって一番自信になったことは、
資格を取ることでも高価な装飾が似合うようになることでもなく、
自分がとても良いと思う人に認めてもらえた時であった様に思います。
あの人が認めてくれたのだから、と思うと
その自分を人に見せても大丈夫な気がするのです。
自分だけで自信を持つ、
これが非常に難しいことは良く知っていて、
果たして自分だけで自信を持つことがもともと可能なのか
証明された試しはありません。
人間はもともと社会性を持つ生き物だからです。
しかしストイックに自分で閉じた自信を求めるくらいなら
誰かに認めてもらって十分な自信を持つというのでも
全然構わないと思うのです。
詩を書き、時には論壇に立ち、絵画を残し、彫刻を施した
岡本太郎のコメントの中に、
あなたの本職は一体何ですかと問われるが、
わたしには本職などない、
わたしの本職は「人間」です、というくだりがあって、
強く印象に残ったのを覚えています。
もちろん各界で成果を残せたから言える台詞ではありますが、
しかし成果というのは人が決めるものであって、
自分が発したものではないのです。
人柄も優しく、たくさんの人に好かれそうな
建設会社の会長さんに会ったときに、
自分は、自分のことを応援してくれる人がどこかに一人でもいるなら、
その人のために生きていける、と話してくれたことがあって、
その言葉のどこかに思いつめたような気持ちを感じて、
しかしそれこそがいつか至る本質なのかも知れないと思いました。
自分というものが本当に一人だと思ったときに、
すべての人は「自分ではない」他の人であって、
すごい人も偉い人もなく、
正しい道も誤った道もなく、
それぞれが個別に思う人生の中に生きている不思議を思う、
そんなときに「自分ではない人」は「ただの人」に
なっていくのかな、と思ったりしています。
世の中には確かに何事かを為した人はいる、
自分にできることは大して多くない、
でも自分の毎日の積み重ねと専心は
自分にとってunknownであったことがknownに変わっていく、
そのこと自体が幸せなんだとよく考えます。
この世界全体を表す統一理論が見つかったとしても、
人は悩みながら生きる、それは
個別の事象に対しては
個別の取り扱いが必要だという明快な理由に依っていて、
世界は誰かが全て理解できるような代物ではもともとないのです。
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