月曜日, 10月 17, 2005

人に表現し、人を集める練習

Windows Media Player9.0には
曲の再生速度を変化できる機能があります。
デジタルとは再現性に優れたメディアの記録法ですが、
毎度完璧なまでに同じ調子の曲を聞くと
どうも調子が悪くなってしまうようで、
いつも聞き慣れた曲を15%くらい遅くして聞いていると
とても気持ちが落ち着きます。
暇なときにお試しください。

毎度同じ調子が完璧に来るとどうにかなりそう、というのは
高校のときにピアノを教えてもらっていた
音楽の先生の話です。
MIDIを使って曲を直接弾いて録音する際に、
一瞬の狂いもないような指使いが求められて、
そのときにこの話を聞きました。

人の曲の中には、気持ちに由来した揺らぎがあります。
機械的完全な正確さではなく、
この揺らぎが必要であるというところに
人の面白みがあります。

完全なもの、完全なリズムを求めて
音楽を操る機械は頑張ってきたはずなのですが、
必要以上のところまで突き抜けてしまうと
やはり人は人を求めるのだなあ、と
人の進歩の限界点を見るような気分でもありました。

集まりの案内を出す係をしています。
出すこちらは一人か少数で、
返事があるあちらはたくさんの人がいます。

人が集まるところには理由があって、
その目的がはっきりしていると良いのですが、
あちらの人がたくさんになっていると
なかなかその目的がはっきりしなくなることもあります。

人が集まっているものの一番大きなものは
市場になるのでしょうか。
不特定多数の人が混在して存在している、ある場所に
何かのアクションを起こしてあるリアクションを得ます。

表現は何のためにあるのか、表現は何なのか、なんて
素朴かどうかさえ分からない疑問を持ちます。

現代的に使われている「表現」とは
「勝ち抜くためのアピール」としてほとんど使われます。
宣伝、歌、さまざまな表現が
「何かに勝つために」準備され競われます。

表現が競争と同一視されてしまうのであれば、
心優しい人にとって「表現」は実にやっかいな代物になります。
表現が他人を排斥するものでしかなければ、
それを好む理由になれないからです。

競争原理を感じずに表現を学ぶ場というのは
一体どれだけあるのだろうとふと想像します。

岡本太郎の本を読んでいて思ったのは、
踊りや歌といった身体表現は
それ自体が生きるために存在するから美しいのだ、という
くだりを見て、とても納得しました。

競争が完全に不要だといっているのではないのです。
良いものが選ばれて世に広まることで
多くの人が生きやすい環境を得ることができるからです。

しかし表現の全てが競争である必要がない、
だから「競争とは無縁の表現」というものが
もっともっと広まらないといけないのではないだろうか、と
最近はこんなことを思っています。

営利目的ではないその集まりは
自由意志でできていて、どことも競争関係にありません。
肩書きや利益追求を外した表現ができます。
ところが最初に感じることは、
「集まりの案内を出して来なかったらどうしよう」と
思ってしまう感情とどう付き合うか、ということでした。

集まりには明確な目的がもともと存在しないので、
たくさん集まる必要さえ本当はないはずなのに、
「集まり=大盛況」であることが暗黙の了解になっています。

少し思うことは、
自分の行動を認めてもらいたい、というのは
誰しも思うことだな、ということです。
それで案内を出して断られたら、
親身にしている人の数が計られそうな気がして
一瞬怖気づいてしまうのです。

でも知り合ったばかりの人たちの中で
親身にしている人がそもそも多いはずなんかないので、
断られることもままあることではあります。
たくさんの人はそれぞれ複数の用事を抱えているので、
いつもうまく行くとも限りません。

そんなわけで、「断られることに慣れる練習」というのを
少しずつ始めてみよう、と思い始めた時期があります。
まずしなければならなかったことは、
断られることは悪いことであるという連想を解くことでした。
この連想が解けなければ、
断られるたびに自分の感情が傷ついてしまうからです。

たくさんの人が、
心をある意味で裸にして向き合っているのかなと最近思います。
それは科学のせいかもしれないなとも思います。
たった一つの真実がある世界、という観念自体が
心の逃げ場をなくすのかもしれないと感じるのです。

自分の意識が何もかも白日の元にさらされている、というのは
現実には錯覚です。
人はそのくらい分かり合うのが難しい生き物のはずなのです。

寒い日には厚着をすればいいのであって、
わざわざ裸になって乾布摩擦をするだけが能ではないはずです。
心も同じで、
深く痛んだときには時々温かい服を着せてやる必要があります。

漠然とみんなが思っていて、
しかしそれが表現になって出てこない、
それを見つけてちゃんと表現すると
ふと潜在的な緊張が解けることがあります。

表現が人を結び救うものである、
いつもそういうものであったらいいのにと
毎日思います。

0 件のコメント: