制御不完全な脳
どんな環境であれ
新しい人に会うというのはいい刺激になるといいますが、
新しいものを受け入れるにはキャパシティーがあるようで、
会うには気持ちの体力が要ります。
土曜日に出た集まりの中で、
最近脳のことについてみんなの意識が高まっているのを
感じました。
社会の教科書では、
類人猿から進化するために脳が大きくなった、と
あるのですが、
生まれつき普通の人の1/10しか脳がない人でも
全く日常生活に支障がないことを知ってからというもの、
どうも脳が大きいことは進化の過程で
どこか間違った選択をしているのではないかと思いました。
哺乳類は体に対して
比較的大きな脳を持っていますが、
そのおかげで感情的な表現が行えます。
ただそういった表現は「種として生き残る」ためだけであれば
全く不要なのです。
社会性というものを獲得するのでさえも
これほど大きな脳が必要ないということは
蟻を見ていれば分かります。
制御工学の言葉で言えば、
自由度に対して可制御量と可観測量が十分用意されないと
システムの動きが不安定になることを
避けることができないとあります。
人の脳は体10個分以上を楽に動かせる、というのは
23人のビリーミリガンのような多重人格が
存在することでも良く分かります。
こういうことから考えると、
脳は体の全入力、全感覚を使っても
完全な制御ができない物体だということになります。
アインシュタインの言葉によると、
すべての人は目に見えない笛吹きの曲にあわせて
踊っている、という表現になります。
逆に言うと、脳は自分の体のあらゆるものを
自在に変えられるだけの十分な潜在能力があります。
志が表情に出るとか、
恋すると魅力的になる、というのは
脳に上手なスイッチさえ入れることができれば
本当はたやすいことなのだろうと思います。
自分のことが思い通りに動かせないという
現実的な問題は、スイッチを入れるのが
そもそも非常に難しいことにあります。
脳のスイッチを入れるために用意された入力端子が少ないのです。
身をもった経験が大事、ということが言われる理由は
もともと体を使って脳に送れる情報量が
脳が要求する1/10以下しかなくていつも不足していることで
説明がつきます。
「知りたい」という欲求を強く感じる人は
脳そのものが導く行動に従っていることになります。
考えすぎはよくない、とか言うのは
脳が暴走してしまったときに止める手段を持てなくなる、
ということに繋がっているのかもしれません。
そして時折聞かれる「愚直にやる」という表現は
実は脳の機能の一部を強制的に「使わない」ことで
自分の脳を制御できる状態へおく、ということの
表れと考えることもできます。
おはなしではありますが、創世記の一節には、
木の実を食べた瞬間から
自我と恥じらいというものが生じて
体を木の葉で覆うようになった、という箇所があって、
それが神が定めた罰の一部であるというならば、
この人間世界がいつまでも混沌としているのは
神が脳をいたずらに大きくしてしまったからと
思うのもまた納得のいく説明かなと思います。
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