金曜日, 8月 26, 2005

Certified

語学が好きだったのを思い出してきました。

8年ぐらい前に買って、誰かに貸したまま行方不明になった
語源辞典をアマゾンで見つけ、
中国語検定問題集と一緒に取り寄せました。

メーラーが不調で、LANケーブルも信号が弱くなって、
すこし電化製品が風邪を引いています。

見た目が変わらない、中身も変わらない、性能も変わらないという
二つの品物があって、
しかし値段がまるで違うものというのが存在します。
一つは作っただけのもの、
もう一つは耐久テストが済んだものです。

このての品物は検査されることに手間がかかるので
検査証なるものが付いてきます。

試験に受からなくても仕事はできる、は
確かに本当だと思いますが、
試験の意味合いというのは一種の耐久テストのようなもので、
大丈夫だろうとなんらかの保証が得られることに似ています。

生産の立場と開発の立場で
検査の意味合いは大きく異なってきます。
生産では既知の手順を用いてたくさん作ることを目的にし、
検査とは省略可能であれば飛ばしてしまいたいものでもあります。
しかし検査によって価値を高めることもできるのであれば、
生産サイドでは積極的に検査を導入します。

開発では未知の手順を早く既知の手順にすることが目的なので、
検査の中でも動作試験はしますが長期試験はあまり行いません。

技術が未開の分野では
まず道筋をつけるところに労働が集中するため、
検査の時間をあまり取らずに開発速度を上げます。
しかし一度道ができてしまうと、
安全に、早く、安くを求めるようになり
検査の時間が長くなります。

問題はここからで、
技術が飽和してくると
開発さえも安全にできるはずだという錯覚が生まれたり、
これまでわけも分からずやってきたことが
危険なので検査を増やしなさいと勧告されたりして、
技術が飽和したらスピードを上げないといけないのに、
飽和した技術自体が開発速度を下げてしまいます。

ブレーキだけではいけない、アクセルだけではいけないというのは
本田宗一郎の言葉です。
それは「どちらかに捉われてはいけない」という、
人間性を特定の事象に固執させずに
自由な立場でいること、と読みかえられるかもしれません。

日本では保証はどことなく「標準添付」されて
当たり前だと思っているところがあって、
それが日々の生活を安全にしているところもあり、
一方で物に対して呆れるほどの労働を求められているところもあります。

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