火曜日, 8月 16, 2005

選択できることに意味がある

アルコール依存症はalcoholicで、
仕事中毒はworkaholicです。
今までワーカホリックを肯定的に受け止めていたのですが、
中毒であることに変わりはなく、
休みを取ると決めた2日目は
仕事に戻りたいと思う自分を止めるのが大変でした。

精力的に仕事をすることと、
ワーカホリックであることは同義ではない、というところから
仕事との向き合い方を考え直します。

研究室のデスクで使っている椅子を
部屋の中にある別の椅子に変えました。
この椅子、以前に使っていたもので、
その時はすわり心地が悪いと思って
昨日まで使っていた椅子と交換し
良い心地だと思って仕事をしていたのでした。

「良い椅子」というものについて考えます。

良い椅子はいつも心地が安らぐもの、と
どこかで思っていたりします。
ところがどんな椅子に座ったとしても
なんとなく飽きてしまったりします。

「良い椅子」は「飽きない椅子」、であるとは
限らないのです。

旅に出るとさまざまなものに
腰を下ろします。

公園の真ん中の噴水へりの石段、
プラスチックで格子に編まれた背もたれのついた
カフェテラスのアルミ椅子、
やや固い乗り心地の山手線のソファー、
日差しで熱く焼けた浜辺の砂地、
夜遅くなった通りのガードレールと
いろいろなものに体を支えてもらいます。

旅先で考え事が新鮮にまとまっていく、というのは
座るものが変わっていくからかもしれないなと
ふと思いました。

人間の背中にはあまり感覚神経が通っていない、とは
小さい頃に読んだ事典の一節で、
座るところはなんでも構わないと思っていたのですが、
座るというのは直接人が触れている箇所であって、
気分を変えるために椅子の交換は必要かなと
ふと思い立ちました。

クッションも背もたれもない
コンクリートに座る、とだけ言うと
丸の内のビルの真ん中の道路に座らされているなら
禅行のような辛いイメージがありますが、
静かに凪いだ浜辺の防波堤に座って、
月明かりに照らされた海の表面を眺めているなら
実に幸せな気分だと思うのです。

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