水曜日, 8月 17, 2005

モード変更の距離

春雨スープが好きなのですが、
カップで売っているものはカップ麺位の値段がするので
もっと手軽に食べられないかと考えたところ、
わかめスープに市販の乾燥春雨をそのまま足しても
おいしく食べられることがこの間分かりました。

終戦の日に、
努力して終戦を意識しない1日を送りました。
そういう1日が送れるかどうかを試してみたかったのです。

8月15日だけは日本は敗戦の国になります。
しかし、負け、くじかれたものが何であったかというと
国家としての意志であって、
人々の思いというのは別にあると考えています。

「あの当時、あなたは戦争に賛成でしたか」と問う
国勢調査をやれば少しは「民の意志」がわかるはずなのですが、
国がこんな調査をしてくれた試しはなく、
ぼんやりした印象のまま「敗戦」であることだけが
この国の印象であるように伝えられています。

民主主義によって作られた国なら
戦争は国民の意思になりえますが、
もともと将軍だ天皇だという象徴支配体制の元で
民意によって戦争を回避できる手段があったとは
思っていません。

戦勝国からは
悪いことをして負けたのだから反省せよ、と言われています。
秩序が崩壊すること自体に端を発して
目を覆うような惨劇が生み出されるのだから、
戦争を選んだがゆえに反省せよ、と考えなければならないわけで、
応じた国も本来同罪なのですが、
戦勝国は自らの行いを正当化しています。

アフリカ、アジアのヨーロッパ支配については
何の感情的解釈もなく世界史で紹介されているのに、
同じ目的を達成しようとした日本の外交だけが
凄惨な言葉で綴られているのか、ということに
もう少し焦点を当てても良いと思います。

日本が何かの問題で非難されている、というときに、
日本が戦後の焼け野原からほんの少し脱したぐらいの状態のまま
現在を迎えていたら、
こんなに非難されるだろうか、と考えることがあります。
海の向こう側にいる人たちも、
行為と悪意がない交ぜになった同じ人間です。

2年前と今年のアメリカの人の気持ちを比べると、
テロによる恐れから外国人を排除する雰囲気と
イラク戦はどう評価されても正当化できないと感じて
彼らなりの申し訳ない気持ちを表現しようとしている雰囲気の違いが
印象に残りました。

バブルの頃は、
経済的には豊かになったのに、
どうして精神的には貧しいのかという問題について
さんざん議論がされていました。
戦争という大病にかかったような日本が
精神的に豊かになるためには50年とか100年ぐらいの
戦争のない時間がもともと必要だったのかも知れず、
どうしてに当たる答えはもともと存在しなかったかもしれません。

日本に500兆円の国債があると言う話で、
一人当たりの額に直すと、という話が良く出てきますが、
返すために死ぬほど努力して
這いつくばって生きていかなければならないようなイメージは
持っていても意味がないと思います。
国の政策をあてもなく恨んで結果が出ないぐらいなら、
少しずつでもせめて返す方法を探しながら、
何代もかけて緩やかにに歪みを取っていけたら良いのではないかと
今は考えています。

映画「ボーリング・フォー・コロンバイン」では
アメリカ人は常に死への恐怖におびえている土壌があって、
だから銃が手放せないんだという一節があり
確かにそうだと納得したことがあります。
アメリカから輸入されたものが文化だとしたら、
恐怖心も一緒に輸入しているはずです。

時間が経ってしまって多くの人は、
戦争の経験も罪の行動もないのに、
なぜ自分たちが謝り続けなければならないのかと
どこかでわだかまっていないのだろうかと
考えることがあります。

それは右寄りな考え方とか言う問題ではなく、
戦争や戦争犯罪の評価がアンフェアである、
許されるための手段さえ示されておらず、
終わりなく保証や賠償にたかられている、
ということを無意識に感じるからです。

失敗したら、平身低頭したまま一生を送る、
こんな世界観でいたら
堂々と非を認め謝ることだってできません。
敗戦の国であっても、心優しく誠実で立派な民であり、
生き生きと生きながら他の国のためにも尽くしていく、
そんな風に世界へ顔向けしたいと思うのです。

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