多元連立方程式
野生の生き物は
薬効のある野草を食べたり、土を食べたりして
時々調子を整えます。
五木寛之「養生の実技」では
できるだけ何の外科的・内科的療法も加えないのが
素晴らしいことだと書いていましたが、
野生の摂理に少しだけ合っていない面があるのではと
いろいろ考えています。
テツガクの言葉で「止揚」というものがあって、
一見対立する概念をよりソフィスティケイトされた見地から眺めると
矛盾せず存在する、というくだりについて
時々考えます。
物理にはパラメタライズという手法があって、
ある結果を表す方程式に影響を及ぼす要素を
ひとまず分からない関数として導入だけしておいて、
関数の形を探しながら使いやすい一般解を導く、
という作業を時々やります。
ある関数形がさまざまな現象に応用できると、
その関数は根源的な自然の決まりごとを表したものとして
重宝されます。
ニュートン力学以前の物理というのは、
さまざまな力学実験を行って、
それぞれにパラメタライズした近似的な方程式をつくり、
個々の現象にのみ使っていました。
微分という概念が用意され、
人間の目に見えるのは速度までだったものが、
その一段下の「加速度」というところへ踏み込んだところで
ばらばらだった現象説明の統一が始まりました。
物理の進展はこういう経緯をたどっているので、
最終的に「全ての物理が統一される」ということを
期待してしまうのです。
しかしふと、
最終的な統一式が仮に二つのパラメーターになると
何らかの方法で証明されてしまった場合は
科学者はなんと見解するのかと気になります。
このあたり、一神教の教義にも全く通じるもので、
無理やり二つのものを一つにしようと努力するかも知れず、
科学はガリレオの頃のように
再度人々の審判にさらされるかもしれません。
連立方程式、というものがあります。
いくつかの分からない数字があって、
それらの数字がいくつかの規則を作っているのを与えられ
その数字を当てる、というものです。
ただ四則演算を繰り返すだけなのですが、
とても面倒だったりします。
分からない数字が少し増えると
考えるのは急速に難しくなっていくので、
大きな連立方程式の中に含まれる
小さな連立方程式を解くだけで
満足してしまったりします。
解ける式を作るにはそれなりの力が必要です。
この方程式、
全ての場合について解けない場合もあります。
ただ、
局所的に解けていたり、未知の数がいくつか残ったままでも
使い道は結構あるものです。
人の世界も同じで、
いろいろな人の願いを多く叶えるための方法は
人が増えるほど難しくなってしまいますが、
小さな理解の満足で目をつぶるのではなく、
大きな理解が得られるような方法の組み合わせが
自分の中に用意できたら良いなとよく願います。
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