月曜日, 7月 09, 2007

increment, incruded

わたしとわたしたちの動機付けが
すべて何らかの「仮説」に基づいている、という言葉を作ったとして、
それを証明する方法は存在するだろうか、と
ふと思います。
なぜならば、「仮説に基づいている」という言葉自体が
「仮説」である域を超えないからです。
トートロジーのように聞こえるこれが
どうやらある種の普遍性を帯びていることに
ふと戸惑うことがあります。

ここで「仮説」に対する「実証」を考えるとき、
わたしたちは現在のところ「宇宙の始まり」に
実証の由来を求めるほかにありません。
宇宙が始まったことと、時間が進むことだけが
この世界の普遍的な出来事で、
この証明の前にはあらゆる寓話的仮説が排除されてしまいます。
そして宇宙の始まりは
わたしたちすべてがどう生きるかという問いに対して
まだ何らの「言語的」回答が示されていません。

「証明されていないもの」を「仮説」と呼ぶのであれば、
私たちは「仮説」の中で生きていることが「証明」されています。

ここで宇宙は「始まった」としましたが、
宇宙にある「起点」が存在するのか、それとも循環しているのか、
その点について論争が続いています。

わたしたちが何かを決めると行った時に必要なものは、
「絶対的真理」ではなく「仮説」です。
「絶対的真理ではない」理由は、
おそらくわたしたちが「人」に生まれているせいで、
宇宙の果てを観察することもできず
空も飛べないほどの限定された存在だからです。

わたしたちはさまざまな仮説を立てることができます-
神はいるとか、神はいないとか、
争いは続くとか、争いは終わるとか、
幸せはあるとか、幸せはないとか、
そしてすべては「仮説」であるとか、あらゆるものが「真理」であるとか。

しかしわたしが思うことは、
これらすべては「仮説」だろうな、ということです。

0 件のコメント: