慰めと共にあることの意味
雨が降っています。
福岡に比べて関東の梅雨はあまり蒸し暑くないので
それほど気になりません。
わたしが思いめぐらす「ある種の悩み」は
かなりの部分が「ヨブ記」に語られているような気がします。
ヨブは敬虔に生きようとし、自らの罪を認めていて、
それなのになぜ世界はわたしを苦しめるのか、と
神に問いを投げかけます。
周りの人がこぞって悩む彼に性急な結論を与えようとして
理由付けをし幾多の言葉を投げかけますが、
彼は「人の語る言葉で説明などできない」から
「どうか神に問わせてくれ」と願います。
キリスト教を広めるものにとってはヨブ記の章は
「よい事を信じればかならず報われる」と解釈しますが、
これを現実に当てはめれば
そうではないことはよくわかっています。
わたしがヨブ記を読んで慰めを得るのは、
それが最後には救われるという打算的な約束があるからではなく、
同じ悩みと苦しみを感じた人が
以前からこの世界にはいる、ということを認識できるからで、
物語の中のヨブは一人荒野の嵐で立ちすくみますが、
これを読む私の心は彼と共にいて、
わたしが問いかけることと同じことを言葉にし、
ただ同じ苦しみを持つものだけが与えてくれる慰めを
得られるような気がするのです。
「無駄口はやめよ」とか「何にいらだってそんな答えをするのか」という。
わたしがあなたたちの立場にあったなら
そのようなことを言っただろうか。
あなたたちに対して多くの言葉を連ね
あなたたちに向かって頭を振り
口先で励まし唇を動かすことをやめなかっただろうか。
ヨブ記16章3-4
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