木曜日, 7月 26, 2007

アニマと世間話をする

あくまで比喩として人の命は地球より重いといい、
しかし地球にはたくさんの人が住んでいるのだから
この比喩はどこまで受け止めるべきだろうかと
ふと思うことがあります。

似たような例で、
人間はこの宇宙で取るに足らない存在だといい、
しかしこれを言っているのはあくまで人であるので、
宇宙と人間存在の大小は価値観に拠ったもので、
わたしとあなたは等質であるというのが
適切かな、と感じることがあります。

たくさんの海を見て自分の心の中に海が描かれるように、
たくさんの人間を見て心の中に人間が描かれます。
心理学の言葉でアニマと呼ぶ自分の女性面があって、
時折それを意識することがあります。

そのような心は誰にでもあるのだ、と本にはあり、
しかし心理は主観に基づく個人固有の持ち物であるので
「誰にでも」の客観的観察を前提とした言葉に
なかなか確証をもたせることができません。

女性面があるからといって、
服が着たいわけでも化粧がしたいわけでもありません。
現実の女性の方がよほど綺麗だと感じるからです。

だからといって女性のように遇されたいわけでもありません。
それ自体は良いや悪いではない中性的な現象なのですが、
たくさんの女性がそう思うらしいと書いてある本によるところの
「女性が喜ぶ」ような事柄に興味があるわけでもないのです。

それで日記を書きながら自分のアニマは何がしたいのかと見つめていくと、
どうやらさまざまな感情の交叉を意識する必要なしに
ただ世間話がしたいのではないかとふと思いつきました。

性差を意識することなく話す友達はいますが、
それでもその立場はやはり男性と女性の担当を分けていて、
男性同士、女性同士で話するような
心理状態の基盤の共有を伴う会話にはなりません。
そしてそれは実現できない願いであることに気がつきます。

男性と友達であってもそのアニマが満たされるわけではなく、
女性と友達であってもそのアニマは見出されることはなく、
ただ時折わたしが私以外に友達のいないアニマを訪ねては
月の浮かぶ湖のほとりで
とりとめのない会話をするように思うのです。

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