探し物は「安心」ですか、それとも「安全」ですか
埋めて戻す、を繰り返す道路工事があって、
たとえばそれは税金の無駄遣いだと言われることがあって、
しかし契約を纏めて収入が減ると嘆くのは土木の人で、
実際の多くの場面では雇用側ではなくそこから会社の経費を引かれて
支払われる労働者が困ることになって、
なぜか無駄遣いの結果益を得るはずの人のところで
収支のつじつまを合わせるようなことになる、
このシステムの醸成とそれにかかる危険の放置が
金融業や虚業の最も深い罪だと思っています。
たとえ虚業でも新しい健全なシステムの構築へと
エネルギーを振り分けられるのであればそれは建設的な仕事で、
わたしたちはそれぞれの職業で
なんらかの「ものづくり」をし続けることが
健全な循環の社会を作る鍵だと信じています。
シソーラスがあって、
それはよく似た言葉を集めて言い換えを促す辞書、という
側面を持ちます。
最近気になっている近い言葉は
satisfyとfulfillの違いで、
それに対する訳に何を当てはめるべきかと考えています。
satisfactionと書くとまず「満足」と出てきて、
一見それでよさそうなときもあるのですが、
満足という言葉はよりfulfilledに近い意味合いを持つような気がして、
それでsatisfactionは「安心」に近い意味を持つのだろうかと
ふと考えました。
調べたところ「充足」という言葉が出てきて、
これなら意味が近づく感じがします。
ではeaseなら「安心」に近づくかというと、
easeは「気を抜く」に近いニュアンスもあって、
安心という状態とはやや異なることに気がつきます。
和英辞典で安心を調べると平和を指す"peace"が出てきて、
peacefulはそれに近い意味合いかもしれないと思います。
reliefは確かに「安心」に近づきますが、
これは「何かからの開放」というニュアンスを含んでいて、
安心は不安と対極にあるものですが
不安から離れることが安心ではないと感じて、
これは安心の意味とはまた違うと思ってしまいます。
気になったのは安心の中にsecuredが入っていて、
今日の疑問はこの「外的・物理的に防備された」というsecuredで
「安心」が得られるのか、というところへと向かいます。
外的に求めるものが「安全」で、
内的に求めるものが「安心」だとすると、
わたしたちは求める方向として二つあることが分かります。
そして方向が異なるのであれば注意が必要で、
安心が欲しいときに安全を求めることは理に適っていないし、
その逆もまた理に適いません。
たとえばいくらドアに鍵をかけても、
それは家を安全に近づけるだけで安心はしません。
一方でいくら安心して橋を渡っていても
橋の点検を怠って強度不足であれば安全ではありません。
安全が安心に繋がるのか、という問いは
わたしは繋がらない、と答えるような気がします。
そして人は非常にしばしば「安全」と「安心」を混同しているような気がし、
また「安全」で「安心」が手に入るか、
「安心している」から「安全である」と思い込んでいるふしがあって、
それが極めて似通った概念であるからこそ
わたしたちは使い間違えるのです。
安全は安全に向かう道があり、
安心は安心に向かう道があります。
そしていついかなるときにも「安全」は担保されないかもしれませんが、
「安心」は求めることができるかもしれません。
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