fearとseeについて
苦手な仕事に就いたと思うときがあって、
しかししばらくすると自分の得意な持ち場を
生かせる場面が現れることがあります。
この時得意である持ち場というのは
かつて苦手だったけれど我慢して身につけたというものが多くて、
それで「得意」と「不得意」は移り変わるものだと
気がつきます。
あらゆる言語は非常に厳密に言えば翻訳不能です。
それぞれの単語が指し示す意味の範囲が
厳密に同じであることはありえないからです。
それでも翻訳を試みる場合には
何らかの観点から切り取る、という作業を行うことになります。
単語は一つ一つが文化的な成り立ちを持っています。
日本人の間でさえ「その言葉が指す意味は何か」などと
形而学的疑問を投げかける人がいるぐらいなので
違う言葉にすればなおさら異なった意味になってしまいます。
しかしある人がある言語を
「文化的背景との深い関わりを持たずに」用いたとすれば、
実はその言葉は最初から限定された意味を持つことになり、
かなり正確な表現となる場合があります。
日本語ではそれが非常にしばしば行われていて、
新しい現象に対して外国語を借りてきては当てはめ、
その現象のみを指し示すように仕向けることがあります。
それで日本語のjargonには
気取ったようにと揶揄される外国語の単語が並び、
そして外国語の本来の意味に通じている人が見ると
何を言っているのか逆に分からなくなるという現象が発生します。
今読んでいる本のキーワードはfearとseeとtotality、fragmentationで、
全体や断片に相当する言葉は比較的意味範囲がオーバーラップできるのですが、
fearとseeはかなり込み入っていて、
それをどう訳そうかとかなり考えをめぐらせています。
よい表現があったら教えてください。
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