短報
わたしは普段眼鏡をしていません。
しかし「日常生活する距離の視点」、
50cmぐらいのところの物を見るのがとても苦手です。
エスカレータの降りる場所を
足元を見ずに知ることができます。
視野角が広くなっているようなのですが、
そのせいで一日過ごすと眼がとても疲れます。
中島義道「悪について」を取り寄せています。
世間が決めた道徳が善だとは思っていません。
道徳の是非は時代によって変わるからです。
そして変わるものにしがみつくことはできないからです。
法が善だとも思っていません。
法は人が作り出したもので、利害の調整はできますが
それで社会に絶え間なく生じる「新たな問題」をカバーできてはいません。
わたしが感覚的に信じている善は
自分の都合よりも「それ」が優先できるかであって、
大事な人の定義であればわたしの都合よりも
その人を生かすことを優先することとなります。
それは「自己愛」を脇において考えることでもあります。
だからといってわたしは「善」という言葉が
ポジティブな意味ではまったく好んでいません。
「善」とは肯定的に存在するものではなく、
あらゆる付帯物を否定してなお打ち消せない、という方法でしか
確かめることができないものだと思うからです。
この感覚はおそらく道徳的な法に縛られて安心する人には
まったく厄介なものになります。
可能な限り法の枠の中にいようと努力はするのですが、
絶対に法の中にいるとは約束しないからです。
すべての人がそうである、とは決して言わないつもりですが、
多くの女性の「正しさ」は潜在的に「自己愛=わたしのため」を含んでいて、
わたしが求めるものとは少しだけ違う気がするのです。
わたしは自分のことを正しいとは言わないつもりです。
それが喜ばれることでもなければ好ましいものでもないことも、
まして正直やありのままでなかったことも認識しています。
過ごしている時間のほとんど全てが
自己愛に根ざしたものだとも思っています。
でもわたしは大切に向き合っているときに
「自己愛」から離れた選択をしたつもりです。
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