火曜日, 7月 17, 2007

祈りという高級言語

東京駅から博多駅まで新幹線のぞみで5時間ほどです。

行きはあなごめしか深川めし、

帰りはかしわめしをお薦めします。

わたしなりに科学の予想をすると、
意識の問題が解かれるその少し手前で
祈りの問題と意味が解かれるだろう、と
最近考えています。

祈りには言葉が必要です。
そして正確な意味での祈りでは
眼に見える物体の対象はありません。

言葉は伝達のための手段だといわれています。
心理学療法などでは意識の間に言葉を介在させて
意識への働きかけを求めます。

言葉は自己認識の手段だともいわれています。
話す対象へと言葉を投げかけることで
それが強化されていくのだといいます。

プラグマティズムの世界においては
「意思」を言葉で作ることになっていて、
自己暗示をかけるであるとか言われています。

計算機に指示を送るプログラム言語は
最初は0と1の数字をいくつか並べたものを
ひとつの「命令」に対応させたもので、
アセンブリ言語と呼ぶこともあります。
アセンブリ言語は非常に高速ですが、
膨大な命令群をアセンブリ言語だけで記述するのは
時間的制約から無理があります。

たとえば漢字を使いたい場合、すべての漢字を
メモリ上のアドレスを指定して表示させるのはほぼ不可能です。

そこで「アセンブリ言語のまとまり」をさらに抽象化したものを
新たに言語とし、これを高級言語と呼ぶことにしました。
こうすることによって、"Aを画面に表示する"というような命令文で
実際に画面にAを表示させることができます。
そこでは計算機的にどのようなデータの流れが存在するかは
見ることができません。

高級言語にはいくつかの欠点もあります。
逐次翻訳型とよばれる高級言語は
すぐに動きますが翻訳プログラムを常に通すために
できたプログラムはあまり速度が上がりません。
一方で先に翻訳してしまう高級言語は
速度は速いのですが翻訳にかなりの時間がかかります。

面白いのは、翻訳機の性能が変わると
同じ高級言語の同じ命令であっても
実行プログラムの速度と機能がまるで変わることです。

時折、祈るだけでは何も変わらない、という人がいます。
祈りは精神の純粋な活動に近いものであるため、
実存主義的な「眼に見える変化」になじまないのだと思います。
しかし祈りは「高級言語」に近い働きがあるのではないかと
最近考えています。

それは誰もが実行できることではないにせよ、
ヨガで代謝や心拍数を変化させたり、
強い意識が病気を治す力を高めることなどの実例から
現象論的に説明できます。
誰でもできないから証明できない、と言ってしまうのは
誰でもスノーボードで宙返りができないから
わたしは信じないというのに近い感じがしています。

人は祈りによってその具体的な方法を意識することなく、
その方法を実行する手段を身につけられるのかもしれません。
そして人が経験によってより適した翻訳機を持つことができれば
同じ願いであってもより叶いやすくなるように思います。
そしてそれ以上に、
祈りはわたしという枠を超えたところへ作用するような気がするのです。

祈りという行為がどのように実体に作用を及ぼすのか、
わたしは試してみようと思います。
現実には叶わないと考えられている願いを、
すべての人に幸せが訪れるよう願うことを、
祈りがどう叶えるのか調べてみたいのです。

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