火曜日, 7月 24, 2007

読むなら古い本を薦めます

夏なら毎日食べてもいいと思っているものは
そうめんと厚揚げです。
どちらもしょうが、ねぎ、みょうがと
薬味を効かせて楽しみます。

タイムマシンに乗る方法があります。

一本の木について注目すれば
それは時間の経過がわかるのですが、
たくさんの「木というもの」について注目すると
それはある時間幅の中では普遍的として取り扱える
対象になっていきます。

時代を表現するには言語、非言語を含めた
何らかの「情報」が必要です。
そしてその表現の一つが言葉であり、
本はその言葉を残すために作られます。

科学の世界ではその分野の創世記とともに
それに関わりを持ったいくつかの人物の名前と
世に発表した研究論文という「ことば」が紹介されます。

その分野を作った論文なのだから
さぞかし難しいだろう、というのがわたしの予想だったのですが、
なぜか一番初めに書かれた論文が
一番読みやすく平易に記述されているように感じます。

それを引用したものはどれもひどく展開が省略されていたり
理論が発展して見た目が難しくなってしまったりして、
読んでいて面白いものは多くありません。

たとえば物語の感想について詳しく書かれた書物があって、
しかしいくら詳しく書いてあっても原典が持つ意味には届かない、
というものをよく見かけます。
「わたし」に関して記事にするほどの「変わったことがない」と
人はかなり思うようで、
それは確かに同じ「名前」のついた電車に乗って
同じ「名前」のついた場所の席に座り、
自らが考えることではないという仕事をしている、という認識では
それらは「決まっていること」だとみなされる傾向にあります。

あらゆるものが本来「同じ」にはなりえないのですが、
「人と同じことをしている」と感じることもまた
「わたしは特に面白いことをしていない」という連想に向かう
ひとつの理由付けとして使われることになります。

わたしたちは「同じ」であることにもう少しなじむ努力をする一方で、
「同じでない」ことを認めていかなければならないのかもしれません。
日本語が使えるからといって分かり合っているとは限らないし、
それなのにあなたとわたしには同じ重力の仕掛けが働いています。

昔から何度も読まれた本がある、といい、
しかしそれをわたしやあなた自身が読み始めるまで
それはどんなに名著だとよばれていても
本としての役割を果たさないものです。

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