木曜日, 8月 30, 2007

?の!

現場を知らなければどんなに平和に「思える」世界であっても
現場を見ると予想とは違った様相になっていたり、
そして難しいと「感じる」世界であっても
飛び込んでみると意外にうまくつかめたりして、
「わたし」の今までの予想が役立たない場面によく出会います。
これを話すと
そんなの当たり前だ、と多分言われ、
しかしこれが常に誰しも持つ普遍的な事実であって
それにいつも手を焼いていることに向き合ってくれる人は
どのくらいいるのだろうか、とふと思います。

「宗教観」を出来るだけ持たないようにしようという発想から、
これまで宗教に関する記事や本には
出来るだけ近づかないでいようという意識がありました。
人が宗教と呼ぶとき何らかの方法で対立を生むことは分かっていて、
宗教を語らずにこの世界を表現する努力をしていました。

しかしこの世界には確かに「宗教観」というものがあるのだから
偏見を持たずに調べてみよう、という試みは
去年の春に始まりました。

買っては読み、しばらく時間を置き、
別の本を探し、という作業を繰り返して
「シュウキョウ」という言葉に
一体どんな人がどんなイメージを持とうとしたのかを
整理することも出来ずただ読み進んでいました。

「問う」という言葉の特殊性、について
人はずいぶん長いこと「問い続けてきた」ように思います。
「問う」という言葉は「無限」という言葉に意味が近く、
無限の定義が「留まることなく増え続けていること」と同じように、
「問う」という言葉は留まることなく歩き続けることのように思います。

たとえば禅は答えのない問答を続けるのだといい、
ヨブ記はただひたすら神の存在を問う人間を描き、
仏教は終わりのない彼岸へと向かう道なのだといい、
そこに共通するのは「留まる何か」を与えることではなく
「常に問いかけること」だけが
人が自らを支えられる方法だと述べているようにも思います。

あるのは物理でも法学でも名前のついた学問でもなく、
「問う」ということであって、
これはどちらかというと敬虔という意味合いが近く、
外に問うaskと内に問うquestionの両面で成り立っていて、
調べていくとreligiousという「状態」が敬虔であるのに対して
religionという「名づけれられたもの」を宗教という別の漢字で充てています。

ある日が昼ごはんを食べながら宗教観の話になったとき、
わたしの話に興味を持ってくれた彼に
「日本人は皆そんなにreligiousなのか」と聞かれ、
[日本人はreligionを持っているのか]という問いではなかったことを
思い出します。

わたしが求めるものは問う状態であって、
しかし宗教は滑走路のようなものであって、
ある点までは地面の助けを借りますが
ある点からは地面を離れて飛び立つように
設計された言葉の集まりであると考えます。

それを意識しているからか、
哲学の最後は問いかけで終わるものが多くて、
そして哲学の最後は自らの存在を否定して終わります。

自らの存在を否定する力を持つもの、
それを人は宗教のいう名のセットとして持っています。

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