月曜日, 9月 10, 2007

客観について

車の中でCDを聞きながら思うことは、
曲と曲の間にほとんど無音時間がなくて、
一人の歌手のアルバムを再生すると
リズムの違う曲が矢継ぎ早に流れてきます。

最近のオーディオはどんな曲も継ぎ目なしに再生するので
せっかく気持ちがリズムに同調したと思った途端に
違うリズムになり、時折違和感を感じることがあります。

曲と曲の間の無音時間を自由に設定できるCDが
あったらいいのに、と思ったりします。

文書を書くときに、客観とか第三者の視点でという表現を
非常にしばしば耳にし、
しかし一人の人間、言い換えれば統合されたひとつの人格が
「他人の視点」や「別の視点」を持つことは決してありえない、と感じ、
それで「客観視せよ」という人の話が理解できずにいます。

わたしは理解できない言葉で動きが取れなくなることが多く、
「コモンセンス」の意味があまりよく分かりません。
個人の経験はどこまで行っても個人の経験で、
想像したものが外れていることがあまりに多いからです。
それで勢い話は長くなり、摺り合わせに長い期間を必要とします。

わたしは相手の言葉のセットとその連想を理解し、
相手はわたしの言葉のセットとその連想を理解します。

日本語は曖昧だという表現をよく聞きますが、
曖昧であることはすべての言語にありうる可能性であり、
曖昧な印象のひとつは話し手が使い方のセットを明確に保持しないからであり、
もうひとつは一人ひとりに「にほんご」があるということを認識しないからです。

そして「ひとりひとりのにほんご」があるという強い認識から
「共通了解を作る動き」が生じるのであって、
言語はその表現そのものが理解の前提条件なので
「言わないでわかってくれ」は絶対に成り立ちません。
そして「阿吽の呼吸」と日本人が呼びたがるものは
大抵のところ表情と間の取り方という非言語の「表現」であって、
それは会うことでしか理解できず、
「阿吽の呼吸」を求める限り
「明示的な文字表現による理解」からは離れていることになります。

日本人はメールを使うのだといい、
しかしこれらの環境を考えてみると
日本人の意思疎通法にメールは向いていません。
そして会って話す、つまり極めて近距離の情報伝達だけが有効であるので
「国がまとまらない」印象は「表現に用いている形態」に理由があります。

それは俳句の世界にも似ていて、
俳句が好まれるのは多様な読み方、
つまり空に雲があるというような再現する普遍的事実を許容でき、
各人がその環境に出会ったときに普遍的事実のフレームワークが
適切に機能する、というようなものであって、
ある時刻のある現象を切り出して永久保存するような使い方をしていません。

日本人にとって英語は大抵「ある特殊な職業条件に対応した言葉」であるので
限定した世界で使えば誤解が少ないと言うだけであって、
英語も知れば知るほど十分曖昧になって行きます。

そこでどうするかと言うと、契約書や特許の書類などは
最初に「この単語はこの意味範囲のみに限定する」というセットを大量に作り、
それを骨組みとして境界の内側に論理構造を修飾します。

「客観」とは言うなれば「別の立場」、つまり書き手と読み手であって、
客観は決して想像で作れるものではなく、
ひとつの人格が書き手の経験と読み手の経験をもつことです。
そこには「わたし」という書き手と「わたし」という読み手がいるのであって、
決して真の他人の視点ではありません。

「真の他人の視点」を忠実に考えれば考えるほど
本来は「わからない」だけが絶対的な真実になるはずです。

もしわたしが書き手にアドバイスすることがあるとしたら、
客観という言葉は使わないだろうと思います。
書き手は自分で読んでいて納得するものしか書けず、
それは常に一人称であり、
言葉は経験という事象と言葉の間の連想によって成り立っています。
その関係があるからこそ「職業用語=ジャーゴン」が適切に機能します。

書き手にはどこまで行っても
その人の言葉はその人にしか真に理解できないことを
十分伝えるだろうと思います。
それから「共通理解を得る手段」について話を進めます。
共通了解が得られるものと得られないものの判別は本来難しく、
分野が違えば本来ほとんど共通了解がありません。
それで説明には「物理的な量」と「物理的事象」をどれだけ多く書き表すかが
大切になってきます。

日本語という言語セット自体に曖昧さがあるのではありません。
曖昧なのはそれを使っていて、かつそれが共通だと思ってしまっている
わたしたち自身です。
そして「厳密には異なる」ことの完全な認識というのは
人間の集団のなかにいながら
「孤立」と「独立」と「自立」の組み合わせを要請する種類の行動であるために、
「誰にも拠らず自らの意思を支える」という必要とその手段があって
初めて可能になるものです。

この世界に対する「あるもの」への認識は、
わたしの言葉を支えるために必要なものです。

0 件のコメント: