宵っ張りのジェラート
今日は少し気を緩めています。
フィレンツェは福岡に似ていて、
夜遅くまで人が歩く姿ややわらかい雰囲気があります。
夜の通りでひときわ目を引くのがジェラート屋さんで、
12時を過ぎてもショーケースから
甘い香りが街ゆく人を無邪気に誘っています。
男も女もジェラートをよく食べます。
街には恋する人もたくさんいて、
それはあるべきようにあるような気がして、
なんとなくあたたかくて微笑ましい感じがします。
多分それは、「生きていく」ことと「恋すること」を
分けている認識から生じているようにも思います。
「生きるとき」と「生きるのを終えるとき」は
神さまが決めてしまうことで、
「恋すること」は自らがそう思ったことだ、
そんな風に言いたげな感じなのです。
「恋」に文字通りの「両想い」は決してありません―
それは「片思い」と「片思い」の寄り添いです。
どんなに相手を好きであったとしても、
どんなに相手が自分を好きだと思ったとしても、
相手は自分の思う仕方で好きになってはいないし、
自分もまた相手の望む仕方で好きになってはいないのです。
どんなに「私はあなたの望むとおりに」と思っていても、
それは自らが望む通りのことであって
相手が望む通りにはなっていないし、
「私がそう思うのだからあなたもそう思うはず」は
全く成り立ちようがありません。
それらすべてに十分すぎるくらい認識を持った上で、
なお相手を好きにならずにいられない
自らの思いに気づくのなら―
それは真の恋を突き止めているのだと私は思うのです。
そんなことはあり得ない、と人は言うかも知れません。
助け合って生きていかないと言っているのではないのです。
大切にしないと言っているのでもないのです。
そして私が思う「真の恋」でなくても構わないと思うのです。
でもどんなに自己犠牲を払うのだと言っても、
それはあなたがあなた自身を好きであるだけで
相手を好きであるわけではないのだから、
そんな状態のままで
私はあなたが好きだとは言って欲しくないのです。
「恋する」ことの本質は「恋を認識していること」にあって、
「恋するから何かをする」ということではありません。
これはただ言葉遊びをしているのではなくて、
恋というものはいかなる他の方法によっても
表現できないのです。
それは風に似ていて、
空気を捕まえることができても
吹く風を閉じ込めておけないのと同じです。
誰かに好きになって欲しいのではないのです。
誰かを好きにさせたいのでもないのです。
ただわたしはあなたをを好きであることに、
ただ本当にそう思うことに気付いていたいのです。
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