HyperLexia & DisLexia
雨上がりの明け方の空はいつも心を奪われるように綺麗で、
自分が夜出かけない日の夜に時々雨が降っていると
それは空からのプレゼントのような気がします。
何かを知るということの結果には二つの側面があって、
小さな違いに気がつくという面と、
大きな違うものの間に共通点を見出す面があります。
何かを分けるときに、
二つの軸の組み合わせで考えることがよくあります。
人について知るうちに、
人は自分が話すことが得意な人と苦手な人がいて、
人が話すのを聞くのが得意な人と苦手な人がいて、
これらの組み合わせで振舞いが4象限に変わります。
全ては努力と修練だ、としたがるのが
「日本人」とわたしたちがよぶあるカテゴリの人たちで、
それは自分が他人と接したときに他人から受ける印象であり、
おそらくは他人が自分に接したときに他人が受け取る印象です。
それは「紋切り型」の受け答えとして存在していて、
紋切りから外れたことをすると周りから浮いてしまうので
話す側は「建前で」”努力と修練”を謳っている場面があり、
しかし自分の今に役立つアドバイスを求めて訊く側は
「本気で」”努力と修練”なのかといぶかってしまいます。
このパターンでは
聞き手になったときには「日本人」は他人であり、
話し手になったときには「日本人」は自分です。
紋切り型の受け答えからどれだけ離れて
その場その場にあった言葉を用意できるかが
聞き手が話し手に求めていることで、
話し手は聞き手に「聞く力を身につけよう」と「話しかける」ことは
適切な場面とそうでない場面があることが分かります。
そして概して、
話をしたい人は多くて聞いてくれる人は少ない、
それは人の仕組みがもともとそうなっているからで、
人が好んでそうなろうとしているわけではないように思います。
2 件のコメント:
違いに気づくことと共通点に気づくこと。とくに職業柄(?)、いろんな宗教や宗派を理解するときには、「同じだね」と「違うね」とを、しかるべき時にちゃんと言わなくちゃ、と思います。
わたしは、自分が話すより人の話を聞くのが圧倒的に好きです。
でも、もっと話を聞きたいとか、そういう打算的な思いで、自分から話したりもします。
ちなみにドイツでは、物言ってなんぼ、という感じで、「聞き上手」なんてドイツ語はきっとないんだろうなあと思います。
とりさんは、なんだかいくらでも相手の話を聞いてくれるような、でも、こちらから質問したら、いくらでも答えてくれるような、そんな印象があります。
そういえば、「うなずきん」というかわいいオモチャがありますが、わたしのところにあったら、お互いうなずきあうだけで、かえって途方もなくさびしくなりそうです。
>tomokoさん
ドイツというと何となく寡黙に打ち込んでいるイメージがあって、話したがりというのは少し意外でした。
わたしは自分ではお天気で好き嫌いがはっきりしていると思っていて、わたしが「話して聞ける」人間になれるかどうかは相手が鍵を握っています(笑)
話を聞けるというのは素敵な才能だと思います。人は話すことで自分を慰めることができて、でも「相手」が必要なのです。
最近は思いきり話す機会が少し減ったかもしれません。ちょっとさみしいです。
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