言葉の報酬系
発生系統の異なり、対抗した二つの研究所に両方所属すると、
それぞれの言い分が分かり、
それぞれの言い分に少しの表現の違いと過不足があることが分かり、
それでわたしは厳密な表現を求められない限りは
まあそんな感じですね、と聞いている時間が増えていきます。
位禄の分離によって江戸の政治は成り立った、なんて一文が
堺屋太一「三脱三創」にあって、
興味深く読んでいます。
商人が金銭は多く持ち、
武士は権力を持ち、農民はそれに続き、ということで
それぞれがそれぞれの方法で満足する、という方法です。
比べられないものとして位置させるのは
奪い合いにならない仕組みを作るうえで必要なことだと思います。
位禄の分離をもう少し詳しく見ていくと、
禄自体は実体で、位は禄を使う潜在のポテンシャルです。
言うなればスピードのついたボールは実体としてのエネルギーで、
地上500mに置かれたボールは地上に対する潜在的エネルギーです。
商人は禄が手元にあることに喜び、
武士は禄をいつでも使える状態にあることに喜びます。
遠い親戚と話す機会があって、
「国から表彰されました」「団体から表彰されました」ということが
非常に誇らしげに語られる場面があって、
実はわたしにとってはすこし新鮮な驚きでした。
表彰というのは何らかの結果を周囲が確認したという意味で、
結果そのものが出たことと表彰というのは別のものです。
実験の真の意味が認められるのは
その「結果が現実化した瞬間」に対してであると思っていて、
それは結果が出てから数年たって周りが確認した、
という経験に基づいています。
言葉の報酬系から離れるようにすると、
何かの行動に対するモチベーションを持つ要素は限定されます。
言葉の報酬から離れるということは行動に対してはちょっと厄介で、
たとえば、ポジティブ・シンキングをしなさいとか、
成功シナリオを描きなさいとか、誇りを持ちなさいとか、
そういうものが行動原理に通用しない思考回路になってしまいます。
それで自分の行動原理を、
たとえば美しいものとか、人に優しいものとかに求めていくことになります。
わたしの中での課題はそこまでで一段するのですが、
まだ問題になるのは言葉の報酬によって動く世界が
現実には依然として存在して、
それは人が言葉という交信手段を持ったときから
ずっと変わらず続く現象です。
そして言葉の報酬系が成り立つからこそ
これだけたくさんの人が現在の組織を築いているのかも知れず、
表彰という行為が脳にとって本物なのか偽物なのかといわれると
わたしは大概が偽物ではないかと思っていて、
結果の後に表彰があるのは構わないのですが、
表彰を求めて結果を作るのは本末転倒だと思っています。
人が特別でありたいと願う気持ちはおそらく、
脳はその能力に対して非常に限られたサイズと性能の体しか与えられないせいで、
人がもし進化したければ、順序としては
脳の発達ではなく体を改造することが先になると思います。
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