5行日記
ありもしないもしもの話
もし私欲に駆られた人間の悼辞を頼まれたら
ありもしないほど精一杯の美事で飾ろう
最後まで真実に近づけないことが
物理学者の、あるいは人間の名誉に対する最大の恥であろうから
大きな一人がけのソファーを買ってきました。
「暑い時期」のピークは8月だという印象があって、
しかしそれは平均気温の話で、
瞬間的に暑いのは7月だと思っています。
もし日本に梅雨がなかったら
日本人の心はずいぶん変わるだろうなという気がしています。
6月に晴れていれば気持ちのよい温度になるのは
9月に晴れている時期を思い浮かべれば想像がつきます。
8月に入って最初に感じたのは
朝の日の出が遅く、日差しが柔らかくなったことでした。
日照時間のピークが6月末、梅雨の時期にあるので
「日が長くなっていること」を感じるのが難しくなります。
「感情と看護」という本を読んでいます。
「心を支える者に必要なことは、何かを『与える』ことではなく、
支えられる者が向ける愛と憎しみの直接的な対象となり、
それでもなお生き続けること」という内容のくだりがありました。
そして心を支えるものは「共感」の感情を積極的に使うため
支える者自身が時折第三者に感情をチェックしてもらう必要があるのだと
書いてありました。
現象は常に理論に先立ちます:
「理論」は「現象」の観察から生まれるからです。
たとえ太陽の動きを調べる物理であったとしても、
理論で再現するためには「現象を測定する」必要があります。
人間は現象の発生する前に正しさを知ることができないから
ひとの「過ち」はこの時空の中では永遠に続きます。
ある時空は時間の軸が戻れるはずで、
その世界では「過ち」を定義することはありません。
今日は花火を見に行きます。
引っ越しして一か月が経ちました。
「人はなぜ老いるのか」を考えています。
それが生物的運命であるとか、DNAのテロメアが短くなるとか
そういうことではなく、
人は意識をそれぞれの体に固有に持たされているにも関わらず
なぜ老い病む苦しみを与えられなければならないのか、という問いです。
この世界は神の実験場でしかないとしたら
神とはずいぶん無慈悲な存在です。
ここで神を擬人化した表現を用いましたが、
人間は人間を超える知性について窺い知ることができないために
最上位の表現は人の行動になぞらえることになります。
証明していないものを信じることができないのが科学者の立場であれば、
実は自分の意識以外の「意識」が実在することを
直接的に証明する手段は現在までありません。
私が他人を「記憶と演算が可能な生物」とみなし、
そこに意識の仮定を置かないことも十分通用します。
これを「唯識」とか「クオリア」とか呼んだりしています。
「老人精神学」という本を取り寄せて読んでいます。
老人が「頑固になる」というのは世界的に共通な性質であるようで、
それには複数の理由が存在しますが、
外界からの刺激が脳に伝わりにくくなり、
代わりに自らの経験が刺激を補完するようになることで
本人は「正当に評価している」つもりであっても
外界への考慮がなされにくくなるのだ、と解説は続きます。
自らが愚かになっていく、ということを
自らわからなくなる日がくる、ということは
"無知は幸福なり"と直結すべきなのかどうか
わたしには判断ができません。
だからわたしはこう言い換えておきたいのです:
老人は自ら愚かになっていくのではなく、
神が人をわざわざ愚かにしていくのだろう、と。
老いの感覚は急激にやってくるものだ、と
さまざまな実験結果は伝えています。
人は人生のピークというものをどこかに持ち、
それが肉体的に成熟しているその時であるならば、
それを失うことは「奪われる」に等しい感覚です。
自らを飾るために必要であった色鮮やかな服が必要なくなり、
自らを支えるために必要であったたくさんの食物も必要なくなり、
世界の舞台には自らの居場所が減っていき、
そしてそれらは決して戻ることがなく、
そんな中で人はこの世界にどんな感情を持ちうるのだろう、と
考える日が続いています。
日本が悩みの最中にあるのは、
おそらく悩みの中にある人が多いせいで、
時のムードとはその時の人間の年齢の平均値で
ある程度決まったパターンがあるのではないかと思っています。
死は存在しない―それはこの世界が一体であるからですが、
しかし「意識」は生命に固有なのか、それとも人間に固有なのか、
または意識は非生物に固有なのか、と問われて、
しかし人間の意識はまさに「起きている時」にしか認識されず、
それゆえ永遠に眠る死は二度と意識が復活しないだろうという
予想をしてしまいます。
おそらく、かつても飽和した社会システムの中で
道徳性や友愛を振り棄てた時期が多数存在し、
そのたびに「改革」という名の断絶が発生してきました。
歴史が繰り返すのは、どんな社会システムを作ったところで
人が老い病むことが全く変化していないせいだ、とも言えます。
赤城の山のそばは年中風が強くて、
風が好きなわたしは気に入っています。
人はどこかで下り坂に向かう、と
なぜか下り坂の心理を考えるようになりました。
人の脳は入力不足な状態で、
正常でありさえすれば年月がたつほど経験を増していくものです。
しかし肉体的限界は常に存在し、
人の機能は常に肉体的状態に依存するため、
人は得たものを少しずつ手放さなければならなくなります。
仕事がとても好きだった者が仕事を手放すというのは
子供が気に入ったおもちゃを捨てるのをかたくなに拒むようなもので、
人は目の前に生じ自らに起こる現象に対して
無条件で受け入れることがとても難しい生き物です。
果たして私はもし何かを得ていくとしたら、
得た後でそれをちゃんと後の世の誰かに譲ることができるだろうか、
その心構えはいつすべきだろうかと考えるようになりました。
社会的役割のピークと肉体のピークは必ずしも一致しない、
下り坂に向かう者にとって
過去に得たものや築いたものは後の世がそれを追い越してしまい、
神は「与える者」より「奪う者」に見えるとしたら、
それでもこの世界に生きるたよりをどうやって持てばいいのだろうと
ふと思います。
カフェインレスのコーヒーが好みです。
外でコーヒーを飲むときには、
しかしデカフェが日本には少ないです。
人口密度が高く、ゼロサムが長く続いたのが
日本の江戸時代です。
人々は物質的消費を可能な限り減らし、
どうすればそれなりの生活が営めるかを
何代にもわたって試行錯誤してきました。
同じころの世界は産業革命があり、
大航海時代があり、植民地政策へとつながります。
彼らは常に国土の外へと解決策を求めてきました。
ゼロサム・ゲームは実は不自由なゲームです。
どこかを増せばどこかが減るというシステムは、
その「どこか」に関わって仕事をする人が増えれば増えるほど、
減らされることに対して抵抗を試みる人が増えます。
世界中の経済学者が、そして経営者が、
ひたすら成長を謳わなければならないのは、
ゼロサム・ゲームでは
「スコープ内にあるすべての人の欲求を単純に満たせない」ことに
気が付いているからです。
世界中が、「外の国」に解決策を求め続け、
しかし世界中で人が増えてしまったため、
地球の外にでも出ない限りゼロサム・ゲームが続きます。
日本人は勤勉である、ということは
本来は日本の国土にあっていない思想ではないか、と
最近思います。
国土が狭いということは、労働を懸命にすれば
供給はあっという間に過剰になってしまい、
供給製品の値下がりが急激に生じるために
絶え間なく購買意欲を刺激しなければならなくなります。
もう一つの問題は、
都市における商品の製造は
主として人的エネルギーのみで律速されるため、
野菜などのように「最低この時間が必要である」というような
自然界がもつリズムの力が及ばない世界になっています。
そこで江戸時代の石田梅岩はどうしたかというと、
「細部にこだわった商品」を生産することを奨励しました。
そうすれば物質的資源の浪費を抑えることができ、
かつ民に仕事を与え続けられる、と考えたからです。
これが中国では、「太極拳」や「論語の暗記」などの
「まったく物質を必要としない活動の奨励」へとつながったりします。
日本が世界の理論を取り入れようと躍起になるのは、
やはり「ゼロサム」状態にある現状を少しでも打破したい、
あるいはその現実から目を逸らしたいせいで、
しかし日本人が「ゼロサムをどうやりくりしてきたか」については
ほとんどその知識を持たないようにも思います。
現在の日本人は、「飽和した過去の日本社会」を
世界に発信する役割を担う必要があるのではないか、と思います。
たとえそれが完全な解決策ではなくても、
技術が発展した現代であればよりよい施策に繋がるはずです。
ゼロサム・ゲームを回避するために最初に必要なことは、
可能な限り「人と同じことをよしとしないこと」にあります。
大衆の流れが画一化すればするほど、
会社は巨大な製造ラインのスクラップ&ビルドを繰り返さなければならず、
これが経済そのものを不安定にします。
ゼロサム・ゲームを回避するために次に必要なことは、
「新しいことや知識に価値を与える」ことです。
これは「知識を与えてくれる機械」に価値を与えることではありません:
もしそうであれば、機械が人間の仕事を奪うばかりになってしまうからです。
たとえば美術館の説明員のような役割の人をもっと事業推進すれば、
人々は知識の習得を喜んで行うことになります。
ゼロサム・ゲームを回避するためにさらに必要なことは、
「ある種の肉体的労働には大きな価値を与える」ことです。
福沢諭吉の「学問のすすめ」のなかに、
「心労の多い仕事は尊い」というくだりがあって、
これは確かにそうなのかもしれない、と思うのですが、
この傾向があまりにも顕著になると
「みんなプランを立てるのだが実行部隊がいない」という事態になります。
たびたび猫が襲ってくるのに困ったネズミたちが、
いい方法はないかと案を巡らせ、
「来たらわかるように鈴をつけたらいい」と提案し、
みんなが納得するのですが、
では「誰が鈴をつけるのか」という相談で
みんなが黙ってしまいます。
楽して経営者になりたい人は、大抵この部分をごまかします:
立場の弱いものに鈴をつけさせに行って、
しかし鈴をつけた功績は取り上げてしまうのです。
立場の弱い者がすべきことは、「仕方なく働く」ことでも、
「武力に訴える」lことでもありません:
「成長させてはならない事業」へ労働力を注ぐのをやめ、
空いた時間で「仕えるべき価値を持つ経営者」を懸命に探すことが必要です。
「働いていればそのうちいいことがある」は決して正しくありません。
労働を断つことで、経営者は経営が危機に立たされ、
「仕えるに足る経営者にならなければならない」との認識を持ちます。
重要な労働に対して高い評価を与えることで、
知識編重で実行のバランスを欠いた社会の形成を防ぐことができます。
競争や共食いで生きていければいい人はそうすればいいのです:
しかし協調して生きていきたいと望む者ほど、個人の力に頼るのではなく
共感する相手を懸命に探さなければなりません。
数はある種の力です:
「サムライ発想」のように、徒党を組むことは絶対悪だと短絡してはいけません。
その力は「あるべきもののため」に、集められなければならないのです。
引越しの準備を始めました。
物理における「確立しうる真実性」とは
再現可能な実験に支えられた数学的法則性とでも呼ぶもので、
しかしながら数学的法則性はトートロジーで定義された
基本的諸法則の組が無矛盾であることを基礎としており、
この世界の「現象」という真実と、
そこから演繹で導かれる真実とが混在します。
物語の世界を文字ではなく映画という映像で描けるのか、という疑問があり、
わたしはこれが「不可能である」という考えがあります。
人の心は「言葉」の連想でできているといいます:
映像は時間の一定の流れに縛られてしまいます。
文字で「5万年」と書くことを映像化しようとすると、
映像ではその重みを表現できません。
「世界の定義」を「真実性に基づく」から「無矛盾である」に切り替えると、
「物語の世界」は「矛盾なく作られていればいい」ということになります。
わたしたちは現象という真実の大きさに
しばしば立ちすくみます。
それは現象に対する「わたし」の小ささを省みることでもあります。
「分からないまま」の世界はあまりに苦しいものです:
「わからないこと」の存在が苦しいのは「閉じていないから」です。
社会システムが大きくなりすぎて、閉じた世界にならなくなっています。
人はしばらくこの「大きくなりすぎた世界」で物質的には過ごさなくてはなりません。
しかし思想が必ずしも地球のサイズ以上である必要はありません。
錆びて動かない大きなトレーラーより、小さくてよく整備された自転車の方が
買い物には便利であるように、
世界を矛盾なく説明できるが、個々の現象についてははっきりしない計算機より、
「山が雲のかさをかぶったら雨」のような地点観測が
役に立つかもしれません。
そして大きく遠くなる世界と、今いる現実を埋めるためには
大きな想像の力が必要です。
わたしたちは誰一人として「全ての真実」など知りません:
しかしわたしたちは常に「全ての真実の総和」の中に生きています。
ちゃんと閉じたお話が作れたら、それがあなたの世界であり、
それがあなたの聖書です。