金曜日, 3月 21, 2008

日本化する世界

カフェインレスのコーヒーが好みです。
外でコーヒーを飲むときには、
しかしデカフェが日本には少ないです。

人口密度が高く、ゼロサムが長く続いたのが
日本の江戸時代です。
人々は物質的消費を可能な限り減らし、
どうすればそれなりの生活が営めるかを
何代にもわたって試行錯誤してきました。

同じころの世界は産業革命があり、
大航海時代があり、植民地政策へとつながります。
彼らは常に国土の外へと解決策を求めてきました。

ゼロサム・ゲームは実は不自由なゲームです。
どこかを増せばどこかが減るというシステムは、
その「どこか」に関わって仕事をする人が増えれば増えるほど、
減らされることに対して抵抗を試みる人が増えます。

世界中の経済学者が、そして経営者が、
ひたすら成長を謳わなければならないのは、
ゼロサム・ゲームでは
「スコープ内にあるすべての人の欲求を単純に満たせない」ことに
気が付いているからです。

世界中が、「外の国」に解決策を求め続け、
しかし世界中で人が増えてしまったため、
地球の外にでも出ない限りゼロサム・ゲームが続きます。

日本人は勤勉である、ということは
本来は日本の国土にあっていない思想ではないか、と
最近思います。
国土が狭いということは、労働を懸命にすれば
供給はあっという間に過剰になってしまい、
供給製品の値下がりが急激に生じるために
絶え間なく購買意欲を刺激しなければならなくなります。

もう一つの問題は、
都市における商品の製造は
主として人的エネルギーのみで律速されるため、
野菜などのように「最低この時間が必要である」というような
自然界がもつリズムの力が及ばない世界になっています。

そこで江戸時代の石田梅岩はどうしたかというと、
「細部にこだわった商品」を生産することを奨励しました。
そうすれば物質的資源の浪費を抑えることができ、
かつ民に仕事を与え続けられる、と考えたからです。

これが中国では、「太極拳」や「論語の暗記」などの
「まったく物質を必要としない活動の奨励」へとつながったりします。

日本が世界の理論を取り入れようと躍起になるのは、
やはり「ゼロサム」状態にある現状を少しでも打破したい、
あるいはその現実から目を逸らしたいせいで、
しかし日本人が「ゼロサムをどうやりくりしてきたか」については
ほとんどその知識を持たないようにも思います。

現在の日本人は、「飽和した過去の日本社会」を
世界に発信する役割を担う必要があるのではないか、と思います。
たとえそれが完全な解決策ではなくても、
技術が発展した現代であればよりよい施策に繋がるはずです。

ゼロサム・ゲームを回避するために最初に必要なことは、
可能な限り「人と同じことをよしとしないこと」にあります。
大衆の流れが画一化すればするほど、
会社は巨大な製造ラインのスクラップ&ビルドを繰り返さなければならず、
これが経済そのものを不安定にします。

ゼロサム・ゲームを回避するために次に必要なことは、
「新しいことや知識に価値を与える」ことです。
これは「知識を与えてくれる機械」に価値を与えることではありません:
もしそうであれば、機械が人間の仕事を奪うばかりになってしまうからです。
たとえば美術館の説明員のような役割の人をもっと事業推進すれば、
人々は知識の習得を喜んで行うことになります。

ゼロサム・ゲームを回避するためにさらに必要なことは、
「ある種の肉体的労働には大きな価値を与える」ことです。
福沢諭吉の「学問のすすめ」のなかに、
「心労の多い仕事は尊い」というくだりがあって、
これは確かにそうなのかもしれない、と思うのですが、
この傾向があまりにも顕著になると
「みんなプランを立てるのだが実行部隊がいない」という事態になります。

たびたび猫が襲ってくるのに困ったネズミたちが、
いい方法はないかと案を巡らせ、
「来たらわかるように鈴をつけたらいい」と提案し、
みんなが納得するのですが、
では「誰が鈴をつけるのか」という相談で
みんなが黙ってしまいます。

楽して経営者になりたい人は、大抵この部分をごまかします:
立場の弱いものに鈴をつけさせに行って、
しかし鈴をつけた功績は取り上げてしまうのです。

立場の弱い者がすべきことは、「仕方なく働く」ことでも、
「武力に訴える」lことでもありません:
「成長させてはならない事業」へ労働力を注ぐのをやめ、
空いた時間で「仕えるべき価値を持つ経営者」を懸命に探すことが必要です。
「働いていればそのうちいいことがある」は決して正しくありません。
労働を断つことで、経営者は経営が危機に立たされ、
「仕えるに足る経営者にならなければならない」との認識を持ちます。

重要な労働に対して高い評価を与えることで、
知識編重で実行のバランスを欠いた社会の形成を防ぐことができます。

競争や共食いで生きていければいい人はそうすればいいのです:
しかし協調して生きていきたいと望む者ほど、個人の力に頼るのではなく
共感する相手を懸命に探さなければなりません。
数はある種の力です:
「サムライ発想」のように、徒党を組むことは絶対悪だと短絡してはいけません。
その力は「あるべきもののため」に、集められなければならないのです。

火曜日, 3月 11, 2008

物語における真実について

引越しの準備を始めました。

物理における「確立しうる真実性」とは
再現可能な実験に支えられた数学的法則性とでも呼ぶもので、
しかしながら数学的法則性はトートロジーで定義された
基本的諸法則の組が無矛盾であることを基礎としており、
この世界の「現象」という真実と、
そこから演繹で導かれる真実とが混在します。

物語の世界を文字ではなく映画という映像で描けるのか、という疑問があり、
わたしはこれが「不可能である」という考えがあります。

人の心は「言葉」の連想でできているといいます:
映像は時間の一定の流れに縛られてしまいます。
文字で「5万年」と書くことを映像化しようとすると、
映像ではその重みを表現できません。

「世界の定義」を「真実性に基づく」から「無矛盾である」に切り替えると、
「物語の世界」は「矛盾なく作られていればいい」ということになります。

わたしたちは現象という真実の大きさに
しばしば立ちすくみます。
それは現象に対する「わたし」の小ささを省みることでもあります。

「分からないまま」の世界はあまりに苦しいものです:
「わからないこと」の存在が苦しいのは「閉じていないから」です。

社会システムが大きくなりすぎて、閉じた世界にならなくなっています。
人はしばらくこの「大きくなりすぎた世界」で物質的には過ごさなくてはなりません。
しかし思想が必ずしも地球のサイズ以上である必要はありません。
錆びて動かない大きなトレーラーより、小さくてよく整備された自転車の方が
買い物には便利であるように、
世界を矛盾なく説明できるが、個々の現象についてははっきりしない計算機より、
「山が雲のかさをかぶったら雨」のような地点観測が
役に立つかもしれません。
そして大きく遠くなる世界と、今いる現実を埋めるためには
大きな想像の力が必要です。

わたしたちは誰一人として「全ての真実」など知りません:
しかしわたしたちは常に「全ての真実の総和」の中に生きています。
ちゃんと閉じたお話が作れたら、それがあなたの世界であり、
それがあなたの聖書です。

月曜日, 3月 03, 2008

淘汰は誰が引き受ける

バッティングセンターに行きました。
一度速度の速いコースで目を慣らすと
遅いコースで楽に見えるようになるのが少し不思議です。

わたしたちは相反するようなシグナルを受け取ることがあります。
「すべての人に食料を」と言い、
「このまま人口が増えれば地球が破綻する」と言います。

淘汰という言葉があって、
環境の変化によって特定の性質を持つ生物や事象が
選択的に優位な生存をする、という意味で用いられます。

人口飽和が今頃地球の関心事のようにとり上げられるのは不自然で、
小さな村の人口が飽和したところに旱魃が起こり
人為的に人口調整を行った例は数知れずあります。

ペストの流行、旱魃、厳寒や地震の猛威は
人の増加を阻んできました。
そしてこれらに対する対策から、医療や生活技術が発達していきます。

わたし自身が人間であり、生きることを望む限り、
わたしの言葉として「淘汰は必要であった」と言うことはできません。
しかしながら、人間は自然から力を引き受ける形で社会を成立させていて、
自然が生と死をもたらす力を持っていたならば、
引き受けた力で人間が生と死をもたらさなければならないだろうというのは
そこに「わたしの言葉」の領域を超えた真実があるのではないかと
ふと思うのです。
それはわたしが「リンゴは地面に落ちる」と言おうが言うまいが
現象としてリンゴが常に地面に落ちることと同じであるか、という問いです。

あくまで個人の生を望み、それを擁護する社会、
社会の最大公約数の人間を残すために選別を迫る社会、
わたしたちは神や自然から力を引き受けた瞬間から
この選択を私たち自身がしなければならないことになってしまっています。

生贄など未発達な文明が作り出した野蛮な習慣だ、などと
文化史は論じておきながら、
現代の人柱は「選択を下したもの」であり続けていて、
そこから一歩も進化していない、
だからそれに変わる選択法はないのだろうかと考えは巡ります。

「全てを捨てなさい」という言葉は思考の放棄ではないはずです:
それは変わり行く時と歩みを共にすることです。
自分が幸せになったからといって考えをやめてはいけないのです。

奪うと奪われるの別なく
あたたかい気持ちで過ごし、人と接することができれば、
それが最初の原点なのに、と春に思います。