金曜日, 6月 30, 2006

見知らぬ街に落ち着くまで

観光地に向かって、綺麗な場所ばかりを見ていると
なぜか不安な気持ちになってしまいます。
人間がいる、と思えなくなってしまうのです。

人の姿をしたものは歩いているけれど、
知らない街は降り立った途端
何の問題もない街のように感じられて、
そしてガイドブックはその町の「とっておき」を見るだけで
時間を一杯に埋めてしまうので、
そんな良い面ばかりの街には
様々な感情を持ち込んだ自分の居場所がなく、
困った人や辛い人の居場所もまたないような気がしてきます。

人の住む街には
多かれ少なかれ何らかの問題を抱えていて、
いつもそれが見えていればいいというわけではないのですが、
人間が一片の曇りもないと無心に信じ切ってしまう世界より、
人にはこんな面もあるよね、と思えるほうが
不思議と安らぐのです。

見知らぬ街に落ち着くまで

観光地に向かって、綺麗な場所ばかりを見ていると
なぜか不安な気持ちになってしまいます。
人間がいる、と思えなくなってしまうのです。

人の姿をしたものは歩いているけれど、
知らない街は降り立った途端
何の問題もない街のように感じられて、
そしてガイドブックはその町の「とっておき」を見るだけで
時間を一杯に埋めてしまうので、
そんな良い面ばかりの街には
様々な感情を持ち込んだ自分の居場所がなく、
困った人や辛い人の居場所もまたないような気がしてきます。

人の住む街には
多かれ少なかれ何らかの問題を抱えていて、
いつもそれが見えていればいいというわけではないのですが、
人間が一片の曇りもないと無心に信じ切ってしまう世界より、
人にはこんな面もあるよね、と思えるほうが
不思議と安らぐのです。

火曜日, 6月 27, 2006

この世界を知りたいと思ったものに対し、
科学が変えてしまった点が一つあります。
核兵器の存在によって、
人がその意思の選択によってこの地球を壊せるような
可能性と印象を初めて持った、というものです。

この事実はあらゆる物事を見る時の印象を変えてしまいます。
どんな時でも人は自然の現象にひれ伏すだけの状態から、
人は吹き飛ばし形を変えてしまうというたとえわずかな一瞬でも
自然より優位に立つ事ができるのだと
感じてしまうからです。

もし自然の力の前にただ為す術がなければ、
我々はその力に対しての恐れや不安と共に、
それらを敬い、人間の小ささや不完全さに対して
もっと謙虚に、もっと穏やかに受け入れることも
できていたのだと思います。

しかし科学は人間が常に必要としている
「不完全な自己」に対する許しを少しずつ奪っていきます。
驚異的な能力を持ち、
不可能だと思われていたことを可能にした過去の英雄たちの名前が増え、
人のチームワークによって
自然の中の制御できないことが人の制御下に納められていきます。

たとえば地震や火事などの災害に対してさえも、
人、機械、物資のネットワークがしっかりしていれば
生き延びることができる、と思われています。
生き延びることができない理由は決して
「自然の力が大きくて
人にはどうしようもないという原因」からではなく、
「必要なことはわかっていたのに
人の不注意で対策を怠ったため」、
という原因とする見方が大勢を占めます。

これらのことは、人が意識の上で理解しておかないとならないこと、
以前に誰かが分からないことは明らかにしており、
「努力によって」知ることができたはずのことがあらゆることに用意され、
それらは選択を強要し判断の誤りは許されることが難しい、とされると
人は罪の意識から逃れられなくなってしまいます。

病気が悪霊からもたらされると信じられていた頃、
そしてそれらに対して為す術を何ら持たなかった頃、
たとえ病気から救う事ができなくても
人は自然の圧倒的な力をどこでも感じ信じることができたのです。

あらゆる症例に名前がつき、その原因、探し方と対策が明らかになると
「目の前の現象を見つけられない間違いを犯したから
治すことができなかったのだ」と責める可能性が生まれます。
一方で、その対策に多額の費用がかかる、ということになれば
治るかどうか分からない症例に対しては
一家が破産してもどこまでも有効な対策とされたものを行い続けなければ
誰かが見捨てた罪を負ってしまう、ということになってしまいます。

これほど極端でなくても
類似した問題はいくらでも存在し、
仕事の決定で誰が責任を負うかということが
常に無言と沈黙の中で議論の対象になります。
この責任の示す意味がこのままではあまりにも重く、
失敗すれば職を追われ死ななければならないようにさえ思われ、
不確定性と不完全さに対して
人が受け止められる量を超えてしまうように感じるのです。

生きていく上で、私から離れなかったものは
自分に対する罪の意識でした。

私には物心ついた頃から、
世界の裏側で絶え間なく起こっている戦争や貧困に対して
何の行動も起こせていない自分というものを感じ、
様々な幸せや喜びをこの世界で与えられ感じるたびに、
いつも罪の意識が伴いました。
ただ人としてできる限りの生き方をしよう、という目標は
この罪に対して完全な解決を与えないのです。

全ての人が生きる上で生じる辛さや苦しさから開放されて欲しい、
それは強い辛さや苦しさに打ちひしがれそうになってきた
自分が感じる何よりも強い欲求です。

自分にできることを増やし、たくさん与えられるよう努力することは
この問いに対するせめてもの抗いでもあり、
罪や自責の意識に対する償いの形でもありました。

しかし、それでも
全てのリクエストに応えることなどできず、
行動するほど反作用も生まれ、
自分に対する罪の意識の苦しさはいつまでも募るばかりでした。
そしてそれらの観念と無関係にまわっている様に見える他の人の世界-
芸術、楽しみ、自らの欲求の追求に対して
それを受け入れる方法がずっと分からずにいました。

日本は西洋的な哲学や思想の理由を持ち込まないまま
科学や法律の手腕だけを生活の中に取り入れましたが、
果たしてその状態は正常に続けられるのでしょうか?

私にはいずれ続けることができなくなるだろうと感じています。

興味や好奇心という人の心から発したものだけでは
科学の実際的で強力で反作用さえ持つ明示的な力とその結果を
正常な感覚を保ったまま受け入れられなくなる日が来ます。
そしてそれらから「離れて」生活することができれば
明示性を突きつける問題とは正面から向き合わずに済むはずですが、
一人で山にでも住まない限りその方法は選べません。

役立つから、という理由で科学を学ぶ者が増え、
その力と思想の一端に触れるものが増えれば、
必ず一度は私が突き当たった問題に触れるはずです。

人間を罪という概念から解放できるのは
人間が生み出した物の中にはではないのではないか、と思います。
私たちが「人間は取るに足らぬほど不完全で小さな存在だ」と感じられるものを
より身近に、より強く意識しなければならなくなっているのです。

宗教は「人に限界がある」という一つの指針を示します。
しかし宗教で語られる言葉は全て「人が作った」ものです。
そして言葉は人によって解釈が異なるものです。
一番の問題は「限界を超えた何か」に勝手に呼び名をつけ、
「人の限界」以外にも生きる方法にまで決まりを示してしまいます。
この決まりごとについて宗教は罪や死へと繋がる禁止を示し、
また「一つの神しか信じてはいけない」ということさえ言い切ってしまいます。

信じるもの同士が正しいと信じ切って争う背景には
常に人間の限界があるため、
争わないと決め、常に赦していることを根拠にして
我々が信じる宗教の解釈こそが唯一正しいと言う論理は
罪を救うためには何らの力も貸しません。
それなら「人間の限界を認め」「争わない」事を抱えているものなら
何の宗教だっていいのです。

人を全て平等に扱いたいのならば、
霊感を受けた特別な人などというものさえ一切作るべきではなく、
人間の力では「人間を超えた存在」について
どの誰であるかを特定することは本来できない、ということだけが
常に正しくあるものであって、
それが何であれ特定した瞬間に、
特定したという理由によって間違いになってしまうのです。

地球を壊せるようにさえなってしまった今、
宗教の力を使わずに
それを思い出させるものがまだこの地上にあるのでしょうか。
手付かずの自然、厳しく巨大な風景でさえも
人の手によって歪めることができてしまうなら、
残された場所は人の住む地、には既になく、
この空と天と、地球を離れた宇宙だろうと感じます。
幸いにしてこの宇宙全体は
地球のように探してまわることすらできないほど
大きくて未知であることが十分に、そして永遠に保証されています。

人も、人の浮世で起こる
喜び、悲しみ、怒り、慰め、過ち、誤解、悩み、苦しみ、そして死さえも
人として大切ではあるけれど
遠くから眺め返せば本当に取るに足らぬ一つの過程である、
まだそう本気で信じられるものが見える場所にあった、ということ、
その中で人としての不完全さ、無力さを認め赦してもらいたいと
今は強く信じていたいのです。

空はいつでも、どこからでも見ることができます。
どこか遠くへ行かなくても、
いつも無限に遠い物、手の届かない大きなものを
その体で感じることができるのです。

私はこれからいつも、時間の許す限り
空を眺めて暮らします。

火曜日, 6月 13, 2006

金ではなく鉄として

街の賑やかさが
時にカンフル剤のように感じることがあります。
カンフル剤は一時的に効くのですが、
次第に疎ましくなってしまいます。

テレビ番組というのは少し哀しいもので、
喋ってないといけなくて、賑わってないといけない、と
何かに要請されています。
どの番組も元気で溌剌で、
しかしどことなく無理があるのです。

中坊公平という弁護士の半生、
「金ではなく鉄として」を手に取ったのは、
とある漢方薬を出してくれる内科のロビーでした。
森永砒素ミルク事件を被害者の立場になって弁護した人です。

大きなことが為されると、何か人間まで特別なように
扱われてしまいがちなのですが、
取り柄や評価が欲しい年頃に行動では認めてもらえず、
自らを行動で明かすことができなかったのだと綴られています。
しかしそれでも認めてくれた家族や友人の特別な支え、
無償で与えられることを強く感じられた彼は
幾多の困難を自分なりの方法で一つずつ乗り越えていきます。

わたしのやり方は時に問題があります。
でもその人の人生に無償であげられるものがあればいいと
いつも思っています。
それらは時折「特別な何か」という枠で括られてしまい、
その関係が永続的になるよう少しずつ縛られていくことがあります。

無償で手渡すことが新たな欲を呼ぶ、というのであれば、
わたしは無償で与えることを控えなければならないのでしょうか。
それとも無償で与えていい大きさには限度があるのでしょうか。
そのときに残ったさまざまな関係は、
すべてgive & takeであったりするなら、
片手に自然、片手に人をつないでいた手の一方を、
人ではなく「かみさま」という何かに繋ぎ換えてもいいな、と
ふと思うのです。

火曜日, 6月 06, 2006

アイデンティティが自動的に失われる社会

39℃の熱が出ていて、
しかし意識は比較的はっきりしています。

どこにいても落ち着かないことがあります。
その原因が何であるか分からず、
熱っぽい頭でしばらく考えていました。

部屋中にあるものは、
主に「それと同形同機能のものがある」ものばかりです。
CDも、テレビも、本も、住んでる家も、
世界のどこかには完全なまでに見分けのつかない複製品があって、
自分だけの何かを象徴してくれているわけではありません。

この悩みは一度解決しようとしたことがあって、
その組み合わせの中に自分自身が見出される、
ということで纏めたかったのですが、
時折うまくいかなくなります。

労働力として役に立つならば、
自分でなくても構わない、という精神があったとすると、
個人のアイデンティティを保つのはさらに難しくなります。

デジタル化と工業化の問題についてふと思います。
なるほどそれらは人の生活に完全なまでに平等な恩恵を与えたのですが、
まったく意識されないところで自分を見失う機会が与えられています。

情報化はさまざまなケースの分類を可能にしました。
病気はほとんど名前が特定されるし、明日の天気は既知のもので、
人という要素は内臓と器官と骨格でできていて、
すべからく平等ということになっています。

地図は世界中の地形を表してくれていて、
自分しか知らないことなんてまるで無きに等しく、
何もかもが「分かったような」気になっています。

分からないことを恐れながら、
しかし分からないことに挑むから自分らしさが現れるとしたら
この世界の「分からないこと」の二面性を思います。

分からないことに挑むこと、
それは恐ろしいことであり、
同時に誰のものでもない自分をつかむことです。