既に物語は書き終わっている
夏が戻ったような日差しの色です。
以前見たイミダスのページ下コラム集の中に、
「名医という言葉がある限り、医学は科学ではない」
というくだりがありました。
人は自分に自由意志があることを
自分にとっての人間性の根幹として認めています。
「人の意志」が本当は自由ではなく、
物理的プロセスによって既に決められたもののはず、
それならこの世界の全てがどうなるかは
「分からない=決まっていない」のではなく、
人が知りえないだけでもう決まっているはずだと
昨日帰りの電車の中でふと思いました。
現代物理学が示したのは、
この世界には時間軸のある一点でビッグバンという「始まり」が生じ、
全ての現象はそこからの時間発展で起こっている、
という事実です。
高エネルギーの世界では時空のねじれがありますが、
人間が生きる時空では時間が元へは戻らず、
あらゆる現象は、瞬間ごとの厳密解は分からなくても
基礎となる物理法則の組み合わせで動いています。
人の理解が進み、現象論的空想が減り、
人の精神活動も生命も脳が化学的プロセスに従っていること、
そして化学的プロセスが物理法則に従っていることを
そのまま演繹すれば、
自分も人も、実は「今何を考え、次に何を考えるか」は
既に決まっているはずなのです。
人間はどこかでこの物理的世界と切り離された存在があると
勝手に思っていて、
だから「自分の人生を自分で決めて生きている」ことになっていて、
意志と現実は違うもの、
神様はリアルタイムに筋書きを書き換えるものだと思っていますが、
「意志」という何かさえもこの世界が作り出したものであり、
基本法則に一度も手を加えられていないのであれば、
全ての物語は「始まりの時」に書き終えられていて、
時間の流れに沿って現象=プロセスが進行しただけということに
なります。
たとえ神という存在を信じようと信じまいと、
人の心に生じる感情を含めた全ての出来事は
この世界の必然として生じていることは
物理学が証明していることになっています。
かつての全ての文明が滅んだことも、
世界中で戦争が止まないのも、
地球の裏側から食料が届くようになったのも、
そして人が地球上に非常に増えてしまったことも、
たとえば生きがいを持つ人と持たぬ人がいることさえも、
既に物語の中には描かれていた話です。
自分が自由意志で物語をずっと作っていき、
全て自分という存在が
全ての現象とは独立に判断している、としたら
それは未知の只中にずっと放り込まれたようなとても苦しい話なのです。
しかし自分が誰かに合い、さまざまな境遇にあうことさえ必然なら、
私の心がどう振舞うかもまた必然の元にあるはずで、
私に会う人が何を話し何を感じるかもまた必然の元にあります。
自分の体と心は常にある物理法則に従って動いている存在で、
自分が思いこんでいた「自由度」というものは自分にも他人にも一つもなく、
世の中の現象と解釈は時間発展的に必然として起こっているのであれば、
私があることも私が考えることも既に決まっていて、
私が何を為し何を知り、どこにいるかも本当はもう決まっていて、
迷うことが必然なら実際にはもう迷う必要がなく、
人の感情について難しく考えることはなくなります。
この考え、一見「自由度」がなくて不便なように思いますが、
実はその逆で、非常に安心できて意味のあるものです。