水曜日, 3月 29, 2006

社会と呼ぶものは具体的には何か

黒い色が好きです。
小さい頃緑が好きで、
しかし洋服として緑は難しいのですが、
黒のアクセントとしてきれいだと最近思います。

社会と呼ぶ厳しかったり不正が多かったりと呼ばれるものについて
時々考えます。

社会と呼ぶ実態のひとつは
「集団心理」の存在だと言えます。
個人ではできないことが集団ではできる、
中心的な意見に共鳴し同調してしまう、
このことが人の集まりに対して
良い作用だったり悪い作用だったりします。
個人としての人間と社会的な人間との乖離が強まると
「社会は冷たい」と「個人」の人間が表現するのです。

社会通念、モラルなどの一切は
どんなに偉そうなことを言っても集団心理の形成です。
どのような社会モデルを形成しても、
それを取り扱うのが人間である限り
社会モデルの全てがすべての人に当てはまるわけではなく、
現実的な問題は生じます。

木曜日, 3月 23, 2006

新聞を読みなさい、と人生の気忙しさの相関について

個人的にとても気分を害してしまう状態の一つに
「ついでに」と「ちゃっかり」があります。
そういう付き合い方をされると一緒に行動できません。

この二つ、なぜ嫌なのかをずっと突き詰めて考えると、
頼むほうに良いことがあるけれど
「ついでだから特に難しくないでしょう」というアプローチで
親切心を無言のうちに強要されるからで、
一人前に頼む責任を自分で負っていないからです。

親切心は要請されて出すものではなく、
その人への感謝の発露として自然に現れるものです。
貯金のように預けたり引き出したりするものではありません。

味噌っかすのような情けない頼み方をせず、
自分の願いを「ついで」や「ちゃっかり」で済ませようとしないことが必要だと
良く感じます。
社会的に一人前に扱って欲しいと思うのであれば
自分が要求したという責任を自分で引き受けることです。

新聞を毎日良く読みなさい、
社会のことがよく分かるから、とは
いつでもどこでも良く聞いてきた話です。
新しい情報はかなりエラーが多くて、
取捨選択も深い洞察も為されない生のものです。

この言葉に含まれる「本当のような嘘の部分」を
正確に表現できないかと時々考えます。

同じ情報を伝えるなら新聞だけ読めばいいのか、と
以前考えたことがあります。
週刊誌とか機関紙とか単行本には
どんな意味があるのか不思議に思った時期があります。

思考に関する二つの極を挙げれば、
早く知らなければならないことと、
熟考しなければならないことに分けられます。

速報が役立つのはたとえば台風の話、交通事情の話など
行動そのものに影響が出るものです。
隠されていた悪事などもいち早く引き抜かれなければなりません。

熟考が必要なものの最も普遍的なテーマは
行動が長期にわたるもので、
突き詰めれば自分の生き方に関わるものです。

速報で株の情報を知らなければ損をする、
このシステムを受け入れるならば人生はせっかちになります。

芸能情報が速報で「なければならない」理由はありません。
興行なんかは十分な宣伝の元になされるもので、
準備に大きな時間がかかるからです。

世の中には、原理的に早く動かなければ存在できない
宿命にあるシステムがあります。
銀行は通貨の循環量が増えることで手数料が増えるため、
経済がどういう状態であっても「激しく変動する」ことを要請します。
この要請に実体経済が連動してしまうのです。
資金余裕がなく開業した会社は
収入と支出の量がともに大きい必要があればあるほど
維持するのが難しい会社になります。

最近は銀行もただ資金を貸すだけでは成り立たなくなって、
コンサルティングで手数料を取ろうという向きに変わりつつあって、
この改善は好ましいものだと感じます。
しかし今度はコンサルティング技術の秘匿が問題になります。
お金がなければ情報が得られないことになるのです。

情報を売っている産業は大きくは新聞やテレビのメディアで、
小さく見るとガイドツアーの添乗員さんや結婚相談所などもあります。
芸能雑誌に載る「スクープ記事」と言う表現は
時々当たりで時々外れています。
紙面には「賑わっている」ことが強要される傾向にあるため、
ねたに困ったときなどはどうでもいいことが一面にやってきます。

無一文から巨額の富をなした人を
「アメリカンドリーム」と呼んで、
商社の人なんかはこれを夢見る傾向にあります。
この「アメリカンドリーム」に含まれるニュアンスは
「非常に短い期間で」たくさんの額の「お金を得る」ことにあります。

20年位かかって十分裕福になる、でいいと思います。

こんな話を年上の人にすると、
「最近の人は競争心や向上心がない」と揶揄されることがかなりあります。
競争して富を奪い合うことが競争心ではなく、
ただ地位的に上り詰めることが向上心ではないはずです。

自分を高めるための努力に競争心は必要ない、というだけです。

向上心がない、と言う人たちのある種の本心は、
「誰かが頑張ってくれたらおこぼれで生活できるのに」という
コバンザメ的な卑しい発想を多分に含んでいます。
夢を持て、希望を持てと大きな会社の社長が謳う言葉には、
若者ががむしゃらに走ってくれれば
我々は左団扇で暮らせる、という意味を含有しています。

若者はもっと十分に賢くならなければならず、
これらの嘘を自発的に徹底的に見抜いていかなければなりません。
ファラオ王が何よりも知恵が欲しいと神に頼んだのは、
嘘は見抜けば破壊できることに気付いたからです。
情報の秘匿ではなく
知らないものにもっと生きる知恵を与えること、
そんな意思に基づく活動を広めて行きたいと思います。

金曜日, 3月 17, 2006

電波ぐらいの繋がり方

何か曲が聞きたい、しかし聞くと頭に響くというのは
最近のオーディオは猫も杓子も音質が良すぎることにあります。
カセットテープやラジオのFMで聞いていた頃は
ノイズも音のひずみもあったのですが、
もう少し何かほっとしたものです。

繋がることは絶対善ではないとふと思います。
継続サービスを謳うものは全て
繋がることの効用を説きますが、
それは拘束条件であって、使い方によっては
長屋の五人組のような不自由な思いをすることになります。

一般に、有線に比べて
無線は品質がよくありません。
受信条件があやふやだし、送れる情報量に限りがあります。
しかし無線は何かが自由です。
無線が不安定だから有線化するというのは
なんとなく何かに信じて寄りかかってしまう心の問題に
極めてよく似ています。

心と心は無線で繋がっているようなものです。
受信条件があやふやだし、送れる情報量に限りがあります。
この世のあらゆる手段をもって有線化しようとすると
心は自由ではなくなってしまいます。

自由で平等な社会があるとすれば、
それは心が自由でなければなりません。
確かに心は不安定なのですが、
不安定なのが嫌で自由を放棄するような姿勢は
そろそろ改めなければならないと思います。

水曜日, 3月 15, 2006

反復性に対する疑問提起

異動の春になると書類書きが増えます。
何枚もの書類に名前を書く疑問を感じることがあって、
その疑問は「不要なことを繰り返している」という感覚に
根ざしたものです。
現場を見て分かったことは、
書類というのは「情報を物体化して積み重ねる」という側面を
利用したものなので、
人間が手記という「一回性のもので」書いていく必要があります。
印字というのは誰でもできてしまうものなので
便利だけど危険でもあるのです。

この例は分かりやすく、
もう少し分かりにくい例もあります。
テレビは録画せず電波を受信したときの映像が好きという
彼の言葉にどこか納得しています。
では歌手が全国公演をしていて
何度も何度も歌う歌が一回性かどうかは
その場の人間の状況によります。

聞いている側にとって一回性であり、
歌う側にとっては反復なのです。

反復性にはふと疑問が起こります。
空気感まで再現できるほどのオーディオまで出てきて、
自分の歌う姿まで記録されるのでは、
では歌う自分が一回性を保持できるかと不安にもなりそうなものです。

一回性とはアイデンティティに結びついたものです。
それを揺るがすのが人だけではなく、
機械や積み重ねられた社会知識、本やメディアも含まれ、
さらには人間が増えてくると似た状況の人も増えてきて、
自分は自分であるはずなのだけれど
それを証明する手段が分からなくなってしまいます。

誰が悪いわけでもなく、
しかし現在の状況は一回性をより強く意識して行動しなければ
自分がわからない悩みに連れて行かれそうです。

火曜日, 3月 14, 2006

ロバの耳

童話には大抵教訓めいたものがありますが、
秘密が言いたくて地中で叫んで穴を埋めたら
そこから木が生えてきて、その木で作った笛を吹くと
秘密がメロディーに乗せてやってくる、という童話は
何を教訓にするのでしょうか。

日曜日, 3月 05, 2006

アナロジー

時折ガラスが気になることがあります。
透明で錆びなくて適度な重さがあって、
石と同じ物質というのも魅力的です。

ガラスには結晶構造がありません。
固体で透明ですが非晶質で、液体と同じです。
ガラスは非常に長い時間が経つとその重みで
勝手に変形するのだということを聞いた時には
不思議な驚きがありました。

非晶質であるがゆえに等方的でもあります。
塑性の自由さはコンクリートと同様に
建築に重要な役割を果たしています。
それは「自由に曲がる石」と「透明な石」の存在であり、
石造りかレンガで建築を続けてきた西洋人にとっては
新しい石造りなのだと思います。

日本人は石を使い慣れていないし、
あまりなじみもありません。
長屋は木製だから江戸時代はたびたび火事になるのです。
見るものがいとも簡単に変わってしまったせいか
永遠性への理解もあまり深くありません。

永遠性とは本来の定義では永遠に届かない場所であるが、
同様に永遠へ向かうものであっても、
そのスピードには差がある、という数学の先生の一言が
ずいぶん心に残っています。

仏教の説く涅槃は永遠に届かない場所である、
この表現に疑問を持ったことがあります。
永遠に届かないものをなぜ追い求めるかという点で、
結果が出ず自分で確認できないものへと向かうことが
とても奇妙に思えたからです。

これと同じ感触をもった事例は
イタリアの完成までに数百年かかるという塔の建築で、
関わっている人たちが大勢いると言う驚きと、
なぜ完成しないものを作ろうとしているのかが
やはりうまくつかめなかったのです。

この問題は今でも時折立ち表れます。
ふと気が抜けると演繹の方法を忘れてしまうのです。

数百年かかったとしてもそれは有限の時間です。
一人の人間にとっては永遠よりも長い時間のように思いますが、
この場合人間は永遠を
自分の一生と同じ長さだと捉えていることになります。

人間が永遠性の概念を獲得することは
人間の文明の発達度合いとは関係がありません。
永遠性はインドで為されたゼロの発見よりも先にあるのです。

一つの人間の中には
個人と社会というものが存在していて、
そのどちらも本能です。
最近思うことは、人間の脳には
相反するものが多分に含まれているだろうという想像です。
たとえば男脳、女脳と言われたところで
それが実体としての性別とは関係がありません。

社会的に生きるのであれば、
どちらの性別も良く理解できなければならず、
「中性的な脳」が必要なはずです。
男らしく、女らしくという議論は
あくまで外見に結びついた話なのかも知れません。

端的に、蟻には知性がないといいます。
崖に続く場所でも砂糖の道を作っておいたら
どんな状況でも勝手に蟻の列ができてしまいます。
これは人間が砂糖の道を人工的に作っていて
こちらはそれが何かを理解しているが、
当の蟻はその全体を理解できずに動いているために
そう呼ばれるのです。

同じ演繹をするならば
いくら社会システムや宗教、習慣、道徳と呼ばれるものがあっても、
その全体が理解できずに動いてしまえば、
どんなにそのシステムを遵守したとしても
それは知性がないと呼ばれて仕方がないと思います。

人間は全てを知ることができない、
けれども知識とアナロジーによって
共通した現象をカバーできます。
その適用範囲がどこまで広がれるかで
それぞれの世界の広さが決まって行くように思います。

地球の広さが理解できたとしても、
地球の裏まで飛行機で行けたとしても、
それは地球をぱらぱらと
流し読みしているようなものかも知れません、
だからと言って一つのことに執着しているのでは
少しも世界が広がりません。

何かを深く知るということは
アナロジーの端緒として不可欠であり
知ったことを展開して新しい世界を広げていくことも
また勇気が必要なことです。

脳が計算機のように何でも覚えないのは、
すぐに書き換わって現状を把握できなくならないように
するためであるように思います。
脳を書き換えるには
おそらく相当なエネルギーが必要なのです。

限りなく小さいが、しかし0ではない

最終段階のデータを取り終えました。
目標を達成した瞬間というのは
現在形であって実は本人も何が起こったかよく分かりません。

事実というのは本来起こった瞬間に発生しているものですが、
人間の認識はある時間を伴って完成するために
事実は常に過去形でのみ語られます。
このことは話題になることをした自分と、
その影響が遅れて伝わる側との時間差に気がつけば
簡単に認識されます。

COURIER JAPONを初めて読みました。
メジャー・レビュー誌をさらにレビューしたような
おいしいところだけつまみ食いするような本かなと
思って読んでいますが、なかなか分かりやすく面白みがあります。

アメリカ大統領が盗聴をしていた話と
CIAが核兵器開発の偽情報を中東へ流そうとしていた記事があって、
以前ならわたしが驚きとともに迎えるところなのですが、
記事になって大衆が知る頃には
現場では未知の現象が次々に起こっているだろう、と
今はそんなことを思ってしまいます。

この世界はいつでも人間の限界に突き当たっています。
いくら文明が発達したところで、
人間が違う生き物に進化しない限りは
さらに多くの事象を把握できるようにはなりません。

一人の人間は多数の人間のある組織の前では
対抗するのが難しいものです。
個人として生き方の筋があることは必要ですが、
だからと言って孤立無援で戦っても動くものは少ないです。

組織は同程度に大きい組織でなら対抗できます。
何かを動かしたいときに、組織という存在が意味を持ちます。
中国の歴史物語はこの辺を良く踏まえていて、
三国志でも西遊記でも、
まず同じ志を持ったものを仲間にして旅を始めます。

日本にとって組織と言う言葉はなぜか後ろ向きな意味を持ちます。
それを表す象徴的な一節は、
元寇との戦いでは日本の侍が勇ましく名乗りを上げてから一人ずつ戦うのに、
敵はただ無鉄砲に集団で襲ってくるというくだりに示されています。

個人というものが非常に成り立たなかったからこそ
美化されて個人での行動が半ば伝説化された日本と、
個人という小さな単位でしか評価されないからこそ
集団での行動に必要性を感じたいくつかの外国、
どちらが理想ということは余りありませんが、
あるものをあるように捉えるならば
集団と戦えるのは集団であり、
社会性が本能であるならばこの問題は常に立ち上るものです。

文化や主義のバリエーションというのはあって当然のもので、
しかしそれが人間の性質をひどく歪めたもので
あってはならないと強く感じます。
そして集団の中で個人は無力と言う表現をされますが、
非常に小さい力ではあるにせよ、それは0ではありません。
忘れてはいけないことのように思います。

土曜日, 3月 04, 2006

特殊なスイッチ

日本語の原稿を書いている最中には
日本語の曲が聞けません。
頭の回路で干渉が起こるみたいなのです。
ところが英語の曲はすんなりと聞けてしまいます。
同様に英語の原稿を書いている最中には
英語の曲は聞けません。
自分の頭は時々メカのようで、
自分の説明書を書いてるような気分になります。

時々、不意ににあるスイッチが入ることがあります。
そんな時は自分が自動装置のようになってしまいます。
自分のことでありながら
自分を大まかにしか制御できないのです。

あげるので欲しい、という連鎖や
自分のためという欲という感情から遠く離れ、
純粋に楽しみのみを伝えようという気分だけで
人と向かい合うスイッチが入ることがあります。
そういう時は不思議と自分の輪郭を失います。

自分らしいこと、というのは
イメージとして形があるように思ってしまいます。
意識と言葉による定義ができそうな気がするのです。
自分が何であるかを手放した瞬間は
逆にイメージがありません。
しかし自分の輪郭がなくなった自分でいる間が
なぜか一番自分らしいと感じる矛盾があります。

意識が位置や速度であるなら、
無意識は加速度に相当する量のようにも思います。

自立についてちょっとした考察を思います。
雇用と被雇用の関係と
自立と依存の概念は本来別なもののはずなのですが、
非常に近い概念なので混乱が起こります。

想像力や発想はとかくすばらしいもののように呼ばれますが、
違いを正確に弁別できないアナロジーというのは
形がないだけに外から書き換えることができず
極めてやっかいな道具でもありそうです。

「自立の概念」を求めて起業する人がいます。
会社に勤める方に多いのではないかとふと考えます。
会社の違いというのはさながら同じ言葉が通じる外国のようなもので、
そのシステムによってずいぶん印象が違います。
民主的な会社もあれば、社会主義的な会社もあります。
分権が成り立っている場所も、一党独裁な場所も、
象徴で動いている場所も、絶対王政の場所もあります。

日本にとって「外国」の定義には
「言葉が通じない国」を暗に含みますが、
世界を見るとアメリカとイギリスは
言葉が通じても外国です。
ということは、外国の本態的定義は「制度が違う場所」であって、
日本の中の会社は十分外国的に違っているのです。

人の大きさと行動範囲、影響範囲、寿命などを
軽く頭に入れてみると、
この地球全てを網羅できる存在にはなれないだろうと
想像がつきます。

例え「これが単一の国で王は私だ」と宣言したとしても、
野球チームのオーナーが選手と観客と球場のドラマを
一人ではどうにも制御できないのと同じで、
宣言すること自体にあまり現実感がないのです。

会社の社長になったといっても
それは社会という大きな入れ物の中で
役割を果たすために預けられた場所である、というのが
会社のもともとの定義であって、
それが自分の所有物であるという実感に結びつくとしたら
錯覚であるような気さえします。

5000万のロールスロイスを100台持っていても、
エンジンのシリンダから自分の手で作ったわけではないので
「自分のもの」という実感は
本当は湧いていないのではないかと思います。

所有するという感覚がもし実感として成り立つとしたら、
それは人間以外のものから
得たものであり、
自分の体を使う必要がありそうです。
野菜を作るといっても種は買ってくるし、
畑を耕すのだってガソリン動力の機械がやってくれます。

じゃあ人間性を回復するためには
分業をやめて個人の単位へ戻せばいいかというと、
これは論点として違います。
分業によって生産性が累乗に増加する恩恵によって
人は余暇を得ることができていて、
そこから人間性を生み出す素地が発生するからです。

文化はさらに加速され続けなければ
ならないのかもしれません。
もし進歩というものがなかったとしたら、
システムは改変の機会を得ることができず、
会社に必要とされるのは「人の言葉が分かり、
忠実に任務を遂行する機械」のような
存在であって、人間性ではなくなってしまいます。
生き物として生きてはいるけれども、
人間としては生きていないのです。

経済成長が長く続く世界は、
おしなべてこの危機に直面します。
「良い時代」といわれた経済成長期が、
人間性にとって危機であった理由、
富によって不幸せになると宗教が説明する事象は
このようにすれば具体的に説明できるかもしれません。

文化が加速すれば、システムは改変の機会を得ます。
つまり、人間は機械のような忠実なマシンではなく、
それぞれの発想とその総和によって現状を開いていかなければ
ならなくなるのです。
このときには「殿様と家来」のような、
社会制度的な上下関係を破ることができます。
全くの個人が個人の発想によって位置を変えられる、
そういう時代が訪れるのです。

安定というものが「不変」であることならば、
人が生まれて死んでしまう不変を破った存在である限り
原義に忠実な安定はありません。
これが富の差を呼ぶのだと危惧されています。

すべての人が生活できるようにすることは
社会の意義として必ず必要だと思います。
しかしどのようなことをしても生活できるようにするなら
それは社会主義であって、
人間は怠惰することが歴史的に証明されています。

やはり頑張るものが認められるように
制度が整うのが理想として良いとは思うのですが、
問題は「何を判断基準にして頑張ったとするか」が
多くの人にとって可観測な状態にないことが多いのです。
人間は他人の心が読めるわけではなく、
24時間追跡調査をしてるわけでもないので、
判断の誤りが生じます。

今の自分ではこの付近ぐらいまで思考すると
問題の問いが最初へ戻ってきてしまいます。
自然が作ってきた生命のシステムによれば
それは自然淘汰という大きな流れの中にいるもので、
それを改変することはできないと思いますが、
もう少しましな方法はないのだろうかと
いつも考え続けています。

この考察、小休止しながら当分続くテーマになります。