月曜日, 7月 31, 2006

何をpainに選ぶか

どうやら梅雨明けしたらしい、という一報を聞きました。
この知らせ、さわやかな風の匂いで先に感じるのです。

CHAGE & ASKAの曲に
"NO PAIN NO GAIN"という曲があります。
何かを得るためには何らかの痛みが伴う、という意味は
漠然と分かっているのですが、
何を痛みに選ぶかは今ひとつ検討の余地があります。

日本人的発想ではpainを
忙しさ、苦労、辛さと解釈して
とにかく仕事を前に進める、という解釈になるでしょう。

しかし会社の中で自分が必要だと思うことを推し進めるときに
同意が得られずに感じる疎外感、だって
立派なpainだと思います。

できるだけ痛みは感じずに前へ進みたい、
それはきっと誰もが思うことです。

少し意味は違うのですが
win-winの関係、というものがあって、
これはお互いがよい関係でいるようなもので、
このときのpainはどこに発生するのだろう、と思います。

人との関係、財産、一見何も失わないようですが、
経験と引き換えに時間は失われていくもので、
それが過去の郷愁に繋がったりします。

永遠という概念、を手に入れようとするならば、
限りある命が終わった後に手に入るものかもしれませんね。

金曜日, 7月 21, 2006

役立つこと、適切なこと

透明のビニール傘は安物だというだけじゃなくて、
太陽の少ない雨の日には空の光が入る明るい傘で
そのことが気に入っています。

物にはさまざまな評価の基準がありますが、
哲学者アラン・ド・ボトンの言葉の中に
人生で重要なのは、役立つことと、適切なことというくだりがあり、
ふと立ち止まって考えます。

役立つことと適切なことが同時に含まれている、という解釈は
自分の心を調整するうえでとても重要なことのように思います。
必要か不必要かという判断よりも
役立つかそうでないかは個人らしい視点であり、
正しい、間違いという判断よりも
適切かそうでないかという判断はより人間らしい指標です。

がん治療に関する加速器の研究を始めましたが、
どこでもそうですが現場では目標が収束しないことがあります。
アメリカでは医学物理士が5000人もいて
技術スタッフが非常にたくさんいて
翻って日本には500人しかいないとかで、
さあ増員、という流れのようなのですが、
アメリカの医療は基本的にお金がかかり過ぎていて、
皆保険のない国なのに放射線治療費は大体日本の3倍で、
その制度の下で医療の質が保持されているのだそうです。

一方で皆保険で充実した医療が行き届いている日本では、
医療スタッフの数が極端に少なくてとても忙しいのに、
一方で薬剤による出費が非常に多く、
こういうところに日本らしいモノ社会の一端が
問題を現しています。

どちらの状態も、
役立ちはしているのですが何かの適切さを欠いています。

皆保険であるか、皆保険でないかは制度の問題で、
どちらにも欠点はあります。
それぞれの状態が生じる不適切な場面を
どのようにして改善していくかが重要です。

月曜日, 7月 10, 2006

「気楽」を正確にイメージする

久しぶりに良い休みになりました。

仕事場では真剣に取り組むもの、
という気持ちばかりが増えてしまって
気楽に楽しむということをほぼ完全に忘れていました。

求道精神、なるものがあって、
日本人は極まったことが大好きです。

さまざまなノウハウ本を読んでいても、
ただひたすらつらいことに立ち向かう、というくだりばかりで
行間が埋められています。

この原因はおそらく、
求人超過でバブル期に就職が楽にできた時代と違って、
難しい事柄をこなせないと、特殊技能がないといけないという認識から、
安易さに逃げず、少々の辛い事があっても我慢して乗り越え、
風雨に負けず花を咲かせましょう、
というメッセージが込められているように思います。

しかし根が真剣にものを考え、極めて忠実に実行する人にとって、
このメッセージが続きすぎるとバランスを崩します。

しかしここで、好ましくないとされる「安易さ」と
現在の社会に極めて必要な「気楽さ」は非常に似た概念であり、
正確に分離して取り出す必要があります。

少し真面目に考察してみようと思います。

どちらの言葉でも、
「なんとかなる」という表現が伴います。

(三省堂辞典)
安易
(名・形動)[文]ナリ
(1)困難がないこと。たやすいこと。また、そのさま。
「―な問題」
(2)特別な工夫や努力のないこと。深く考えないこと。また、そのさま。

気楽
(形動)[文]ナリ
(1)気兼ねや心配がなく、のんびりしているさま。
「隠居して―に暮らす」
(2)物事にこだわらず、のんきなさま。

辛い事がこれから続くからこそ、「気楽」の具体的方法を
強く意識して開放してやる必要がありそうです。

よく「人事を尽くして天命を待つ」ということわざがあって、
以前何かで読んだ本の中には
(天命を待つだけの状態にするまでには
これでもかというぐらい努力が必要である)
という言葉ばかりが載っていた記憶があります。

しかし努力して、すべてが報われるわけではない、というのは
水木しげる(水木さんの幸福論)にも載っています。
社会がルーチン化から解かれた以上、
尽くすべき人事が思いつかない時だって
多分にあるのです。

では努力しすぎて燃え尽きてしまう人、
現状を真剣に打破しなければならないと思っている人の
「心の固さ」を上手に受け止め、
柔らかくする方法はないのでしょうか?
この問いは人に向けたもの、というより、
かなりの部分で私に向けたものです。

一生懸命に念じている人は
何かを諦められないものです。
諦められない理由はいくつかあって、
ひとつはそれでなければならない、
そうでないと生きていけない、と思ってしまうことにあります。

これは、さまざまな作業や仕事のプロセスが
「忠実に履行される」ことを前提になっていて、
しかもそのプロセスが非常に長くなりつつあることにも
問題があります。
そういう思考様式ばかり取らされれば、
おのずとその思考様式が身についてしまいます。

仕事、という言葉の中に、
忠実で長いプロセスの実行、という側面と、
分からないことに試行錯誤する、という側面があって、
どちらの概念も強力に必要で
かつ渾然一体となって来ている、ということが
顕在化したのが現代社会のようです。

「天地人」という言葉があります。
すべてのことに、天命、地の利、人の努力が揃っていないと
物事は前へ進めない、という意味です。
とてもよいバランスの言葉だと思います。

地の利まではある程度検討の余地がありますが、
天命の流れ、運命の流れだけはどうにも変えようがないのです。

ひとしきり十分な努力をしたあとで、
「今はその時じゃないな」と思える、
自分を解放できることもまたとても必要です。

知識と手段は非常に強い力で、
何らかの解法を与えてくれることも非常に多いのですが、
それらは有力ではあるけれど万能ではなく、
分からないときこそ今の自分の決断の方向性を認め信じ、
思い切って天=この時の流れに委ねる勇気を強く持てることが
安易さに流れず「気を楽にする」有力な方法だと考えます。

戦後経済が右肩上がりばかりというのは、
世界的に見ても異常な状態だったのです。
ある一定の安定状態に落ち着くためには、
景気と不景気が同じ強さで循環しなければなりません。
経済成長、ばかりが謳われますが、
世界がひとつになり、富の不均衡が急激に解消される中で
世界中が世界中を巻き込んだ循環経済へと移行するでしょう。
決して成長ばかりは望めない世界です。

そんな世界の中で「ハイリスク・ハイリターン」は非常に危険です。
日本人が生活に必要とするコストが非常に高いのであれば、
これは「ハイリスク」以外の何者でもありません。
儀式のようなお歳暮や義理チョコがなくなったのは
非常に喜ばしいことだと思っています。

人間が生きていくには、
好景気のときに生きられることではなく、
不景気のときにも生きられることのほうが重要です。
もちろん時には強さも必要なのですが、
強くなくてもそれなりに生きる安心が必要なのです。

好景気ばかりしか知らずに育った上の世代では、
環境のせいでもしかしたらそういった類の知恵が
十分に醸成されなかった可能性があります。
こういう世代に対してもし訴えかける必要があるとすれば、
富をきちんと分配しようという動きだと感じています。
そして不景気だからこそ
さまざまな「欲」-それはたとえ愛や希望や夢のようなものであっても-を
上手にコントロールできるようにならないといけません。

一生懸命な人にとっての「気楽」は、
人事の及ばない天の動きがあることを認め、
欲を小さくし、
勇気を持って不安を世の流れに積極的に預けることから始まるようです。
結論としては、
「気楽」は「無為」ではなく、
積極的な心の働きである、と感じました。

水曜日, 7月 05, 2006

幸せ感の原因

時差で少し眠れずにいます。

創造性を発揮して生きる、ということは、
そして「創造性」に込められた意味とは
どういうことかとふと考えました。

人と違っていなければ仕事にならない、
そしてその違いが人よりも優れていなければならない-
大量消費社会が終わった時に求められたのは
こんなことでした。
競争の苛烈感、のようなものは
すべての人が何らかのプロになることを要請する風潮から
来ている気がします。

自分がどれほど平凡であるかというのは
非常によく分かっていて、
平凡でも生きていく手段が欲しいと思っているのです。

現場の、会社の、人の輪のどこに行っても
「その場所でがんばる存在を」
「若い力でこれからを支えて」と矢のように聞きます。

経済規模が縮小する世界は、
激烈なまでの個性の表出と
単なる競争の世界になってしまうのでしょうか。

生きていくこと、それ自体が生き物の目的なら
人間は本来、「共生」ができればよいはずなのです。

本態的に恋愛は競争を含みます。
優れた人を選びとる、ということ自体が熾烈な競争であって、
選び選ばれるが相思相愛であっても
見かけ上競争に見えないだけです。
恋愛が与えるものは「究極の幸せ」ではないのです。
もちろん、個性によって選ぶ基準は違うのですが、
どういうわけかその基準は驚くほど画一化していて、
将来性があるとか包容力があるとかばかりです。

個性を好きになる、ということは
決して優れた面を好きになる、とか
何かを与えてくれる、ということとは関係ないものです。
個性とは本来的によいとか悪いとかでは表せないもので、
それがその人そのものなのです。
だから少し頼りなく、仕方がないところもあるけど
この人がいい、というような選び方は自発的で、
きっと幸せ感に通じるでしょう。

十分な幸せ感をもたらすもの、それは
「今の自分で十分である」という意識が満たされることでしょうか。
小さいころ、上手に本が読めるようになった、
それだけで褒められ幸せになった記憶は
きっと多くの人が持っていると思います。
背伸びせず、自分ができることで喜ばれる、
ということで得られる喜びが
これからの人の意識の根底を支えていく気がします。

使命感に突き動かされる心の良い若者が、
今非常に疲れています。

これからの社会に望まなければならないこと、
それは「24時間背伸びを強要されるような社会ではなく、
せめて人生の過程で平凡に休むことが十全に許された社会にしてほしい」
ということです。

お受験、投資、選別、私のため、我が家族のため、
これらはいかようでも結構ですが、
それが「個人」として生きようとする社会に
強烈な不安定性を持ち込んでいることを
もっともっと強く認識して欲しいと思います。

私ができること、それは
今いる、今あるものを「それでいいんだ」と認めてあげることであり、
それが今の自分に一番必要としているものです。

火曜日, 7月 04, 2006

風凪ぐ海に帆を上げて

小さいある日、ふと思ったことがあります。

「孤立、死への不安、悩み、
憎しみ、争い、奪いあい、殺しあい、
とめどもない精神破壊、環境破壊から、
個人や人類が生き延びるためにはどうしたらいいのか」、
これはずっと考え続けてきたテーマでもありました。
ただその答えが単なる「慣習」「宗教」ではないことも感じていました。

医療において、ようやく「精神」を超えた「Spilituality」が
意識されるようになって来ました。
嬉しい、楽しい、悲しいといった「精神」の面から発展し、
「生きる喜び、生き甲斐感、達成感」というものこそが
生きているうえでもっとも大切なものである、という思想です。
そして自然の力、絶対的なものの存在などを
受け入れていくことが自我を支える助けとなる、というものです。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%C8%A5%E9%A5%F3%A5%B9%A5%D1%A1%BC%A5%BD%A5%CA%A5%EB%BF%B4%CD%FD%B3%D8?kid=48025

それを考え続けたのが宗教なのですが、
その体系は複雑なためどうしても解釈の誤りが生じていきます。
組織として成り立ったから正しい、ということは決してないのです。
その強烈なノイズの中からSpilitualityを読み取れるか、
それが悟りと呼ばれるものである気がします。