月曜日, 9月 24, 2007

四ツ谷16:00

飛行機の中はかなりの騒音なので
耳栓が欠かせません。
移動の機内は映画を一本見たら良いほうで、
大抵はその前後に慌しく準備をしているので眠ってしまいます。

10億人ぐらいが一斉にジャンプすると
大きな地震か津波が起きる、というような話をどこかで読んで、
地震が起きるかどうかはともかくとして
それだけの人がたったひとつの目標に向かうことができたら
いろんな不可能が覆るだろうと思います。

世界中全ての人が平和でありますように、と
わたしを含めて今までこの世界でどれだけの人が祈っただろう、と
想像します。
相当な人数がいるはずで、
ところがこの願いが叶ったことは一度もありません。

願って叶わなかったのでそれで終わりではないのが
この世界の時間の定めで、
叶わなかった人はそれからの時間を
願い続けて過ごしていくのか、願いを打ち捨ててしまうのか、
様々な葛藤状態に置かれます。

生き物は厳しい環境におかれて進化するのだといい、
そして互いに争うのだといい、
それがまるで生き物の定めのように言われます。
わたしはこの世界をそんな仕掛けにしてしまった「何か」は
どう考えても設計ミスをしているようにしか思えないのです。

金曜日, 9月 21, 2007

"Happy" + "End" = "Happy End"

なぜお酒に強くなるのかは
酵素の有無だというのは一応分かっているのですが、
ではその酵素の有無は何で決まるのかはいまだ分からず、
世の中の話題というのはもう少しつつくと「分からない」が出てきます。

それでいたずらな人は
「なんだそんなことも分からないでよく研究ができるな」なんて
言いたがる人が多いのですが、
そういう人は大抵自分に自信のある分野でしか意見を言わないもので、
「わからない」ことに怯える「けんきゅうしゃ」は
「研究者」の定義=分からないことへの敬意と憧れをもつことに
反していると思います。

「ハッピーエンド」という言葉を不思議に思います。
「時間の限られた物語」の中では「終わり」が決まっていて、
だから「エンド」の意味は「物語の終わり」という意味なら明確です。
しかしこの世界が「終わる」という表現は
その可能性がほとんどありません。
地球にとって生命のなかった時代の方が圧倒的に長くて、
そして地球から生命がいなくなったとしても
この宇宙は広がり続けていく固有の時間を持ちます。

しかし人は「終わりよければすべてよし」に見られるような
「ハッピーエンド」思想をどこかに持っていて、
それがなぜなのかをしばらく考えていました。

人は物語をあるまとまりで終えるように、
区切りのない時間を昼と夜のセットで終えます。
そして眠りはおそらく「おわりのしるし」です。
人は意識のあるあいだ、つまり起きている間しか
正確には生を意識できず、また自身を意思によって動かせません。
人はおなかが満たされると眠たくなる、
それは「意識の放棄を許していること」であって、
その「安らかな眠り」が「ハッピーエンド」のもとではないかと
最近考えています。

安らかな眠りの前に描く想像は
「明日も良いことがあるだろう」という期待で、
そして人は明日にちゃんと期待を描くことができ、
それが最後の明日であってもこの世界に期待する練習を
実は眠るという手続きで行っているのかもしれません。

人類には確かに問題が消失したことは一度もありません。
しかし人類すべてが希望を完全に失ったこともまた一度もないのです。

木曜日, 9月 20, 2007

カワイタコトバ

今年は暑かったので
デスクの下にサーキュレーターを置きました。
説明書きを読むと
「冷えすぎるので風を人体にあてないでください」とあって、
もっと冷えても良いのに、と思ったりします。

アメリカの記者だか忘れましたが、
表現に形容詞はいらないと言っていた人がいて、
ふとそのことを思い出します。

目の前にリンゴが3つある場合、
二人の人が見ると何かが「3つある」ことは了解します。
しかしこれを形容詞で表現した場合、
リンゴ園に住む人は
3つのリンゴを少ないと言い、
リンゴが1個1億円の国に住む人は
3つのリンゴを多いと言うとします。

形容詞は感覚に対する言語表現であって、
共通了解が取りにくいものでありながら、
生活の質感におおきな影響を持つ言葉です。

乾いた表現を求める、
つまり静止画の写真に似た描画をするなら、
澄み切った青空、よりも
8月のメキシコの雲ひとつない青空、のほうが
より印象を確定的なものにします。

打ち合わせで「全部」や「絶対」をよく使う人に出会うと、
台詞の意図を読み取れず
話が食い違っていくことがあります。
「全部」や「絶対」はとても使いづらい単語で、
それは「全部」や「絶対」に相当する現象が
この世界にはもともと少ないことに起因しています。

「なんて青い空なんでしょう」という感嘆の台詞と、
「こんな空を以前見たのはいつだろう」という感嘆の台詞、
なぜか形容詞の少ない台詞のほうが訴えるものがあり、
それは「熱狂する歌は規則正しく歌われている」ことに似て、
冷静さが感情を動かす例でもあります。

火曜日, 9月 18, 2007

高速増殖炉と核融合炉と

どんな大都会でも夜は眠る人が多くて、
その様はとても静かで、
もしこの世界の人の睡眠時間が1日16時間で
起きている時間が8時間だったとしたら、
人間世界に起こる問題そのものが減るのではないかと
ふと考えています。

エネルギーという言葉をわたしたちは簡単に使い、
それが力学的・電気的・熱的・核力的のいずれかに該当することを知っていて、
かつそれらの定義も変換公式も分かっているのですが、
「エネルギー」が何であるかはいまだに分かっていません。

人はエネルギーという言葉に特別な響きを与えます。
食べ物は体にエネルギーを与えるものとして重要で、
寒い冬をしのぐために熱エネルギーが必要で、
パソコンを動作させるために電気エネルギーが必要で、
岩盤を削るために力学的エネルギーが必要です。

世界中がお金をかけようとしているものが
高速増殖炉と核融合炉です。

高速増殖炉は言うなれば今の核分裂型原子炉の派生型で、
ウランの代わりにプルトニウムを原料にします。
「燃える」ウラン235の濃縮に限りがあることと、
「燃えない」ウラン238から「燃える」プルトニウム239までのプロセスは
中性子が2回入射するだけで済むことが動機付けになっています。

核融合炉は2重水素と3重水素の衝突、
あるいは2重水素同士の衝突で発生するエネルギーで、
2重水素だけを燃料にできれば原料は海水だけで済みますが、
3重水素が必要な場合加速器か原子炉が必要になります。

エネルギー問題が切実なのは、
自国のエネルギー供給装置運転を他国が掌握した場合、
エネルギーが戦略的に用いられる手段になりうるからです。

それでは人間がみな薪を燃やして暖をとればいいかというと、
今の人口ではあっという間に森林を切り尽くしてしまいます。

自然界のピラミッドでは
連鎖の頂点に存在する種の数は極めて少ないことが
バランス成立の必要条件になっていて、
連鎖の頂点に上ってしまった人間は
明らかにこの法則に反しています。

細胞をシャーレで培養すると、
シャーレ一面に培養し終わると
細胞は互いに連絡して分裂を止めるのだそうで、
これをコンフルエントと呼びます。

金魚は水槽の大きさ、つまり酸素溶存量に合わせて
成長する大きさを変えています。

人が地球というシャーレの上に満ちたとき、
人は何をするのでしょうか。

金曜日, 9月 14, 2007

きみはともだち

うつぶせになって寝る、という健康法があるそうで、
健康な人はまっすぐ仰向けで寝るのだと思っていて
仰向けで寝ようと努力していたのをすっかりやめて
枕を抱きかかえるようにして寝ています。

背中を温める、も始めていて、
手足のこわばりは背中をうまく伸ばせないのに
理由がありそうだと考えるようになりました。

この数ヶ月聴いているのが浜崎あゆみと平井堅で、
どちらも福岡の出身で、
そして少し花開くのに時間をかけたうたうたいです。
「恋じゃない歌」をちゃんと聴けることは意外に少なくて、
そしてわたしは曲のリズムや流行ばかりに気をとられていて
特に浜崎あゆみの方は
歌詞をちゃんと聴いていなかったことに気がつきました。

幸せになるために生まれてきたんだと
思う日があってもいいのだろうか、という問いに
うたうたいは「いい」とも「よくない」とも言わず、
「わたしはそう思いたい」と言います。
シリアスな歌詞にポップなリズムがついている、
なかなか良いものだと思います。

月曜日, 9月 10, 2007

客観について

車の中でCDを聞きながら思うことは、
曲と曲の間にほとんど無音時間がなくて、
一人の歌手のアルバムを再生すると
リズムの違う曲が矢継ぎ早に流れてきます。

最近のオーディオはどんな曲も継ぎ目なしに再生するので
せっかく気持ちがリズムに同調したと思った途端に
違うリズムになり、時折違和感を感じることがあります。

曲と曲の間の無音時間を自由に設定できるCDが
あったらいいのに、と思ったりします。

文書を書くときに、客観とか第三者の視点でという表現を
非常にしばしば耳にし、
しかし一人の人間、言い換えれば統合されたひとつの人格が
「他人の視点」や「別の視点」を持つことは決してありえない、と感じ、
それで「客観視せよ」という人の話が理解できずにいます。

わたしは理解できない言葉で動きが取れなくなることが多く、
「コモンセンス」の意味があまりよく分かりません。
個人の経験はどこまで行っても個人の経験で、
想像したものが外れていることがあまりに多いからです。
それで勢い話は長くなり、摺り合わせに長い期間を必要とします。

わたしは相手の言葉のセットとその連想を理解し、
相手はわたしの言葉のセットとその連想を理解します。

日本語は曖昧だという表現をよく聞きますが、
曖昧であることはすべての言語にありうる可能性であり、
曖昧な印象のひとつは話し手が使い方のセットを明確に保持しないからであり、
もうひとつは一人ひとりに「にほんご」があるということを認識しないからです。

そして「ひとりひとりのにほんご」があるという強い認識から
「共通了解を作る動き」が生じるのであって、
言語はその表現そのものが理解の前提条件なので
「言わないでわかってくれ」は絶対に成り立ちません。
そして「阿吽の呼吸」と日本人が呼びたがるものは
大抵のところ表情と間の取り方という非言語の「表現」であって、
それは会うことでしか理解できず、
「阿吽の呼吸」を求める限り
「明示的な文字表現による理解」からは離れていることになります。

日本人はメールを使うのだといい、
しかしこれらの環境を考えてみると
日本人の意思疎通法にメールは向いていません。
そして会って話す、つまり極めて近距離の情報伝達だけが有効であるので
「国がまとまらない」印象は「表現に用いている形態」に理由があります。

それは俳句の世界にも似ていて、
俳句が好まれるのは多様な読み方、
つまり空に雲があるというような再現する普遍的事実を許容でき、
各人がその環境に出会ったときに普遍的事実のフレームワークが
適切に機能する、というようなものであって、
ある時刻のある現象を切り出して永久保存するような使い方をしていません。

日本人にとって英語は大抵「ある特殊な職業条件に対応した言葉」であるので
限定した世界で使えば誤解が少ないと言うだけであって、
英語も知れば知るほど十分曖昧になって行きます。

そこでどうするかと言うと、契約書や特許の書類などは
最初に「この単語はこの意味範囲のみに限定する」というセットを大量に作り、
それを骨組みとして境界の内側に論理構造を修飾します。

「客観」とは言うなれば「別の立場」、つまり書き手と読み手であって、
客観は決して想像で作れるものではなく、
ひとつの人格が書き手の経験と読み手の経験をもつことです。
そこには「わたし」という書き手と「わたし」という読み手がいるのであって、
決して真の他人の視点ではありません。

「真の他人の視点」を忠実に考えれば考えるほど
本来は「わからない」だけが絶対的な真実になるはずです。

もしわたしが書き手にアドバイスすることがあるとしたら、
客観という言葉は使わないだろうと思います。
書き手は自分で読んでいて納得するものしか書けず、
それは常に一人称であり、
言葉は経験という事象と言葉の間の連想によって成り立っています。
その関係があるからこそ「職業用語=ジャーゴン」が適切に機能します。

書き手にはどこまで行っても
その人の言葉はその人にしか真に理解できないことを
十分伝えるだろうと思います。
それから「共通理解を得る手段」について話を進めます。
共通了解が得られるものと得られないものの判別は本来難しく、
分野が違えば本来ほとんど共通了解がありません。
それで説明には「物理的な量」と「物理的事象」をどれだけ多く書き表すかが
大切になってきます。

日本語という言語セット自体に曖昧さがあるのではありません。
曖昧なのはそれを使っていて、かつそれが共通だと思ってしまっている
わたしたち自身です。
そして「厳密には異なる」ことの完全な認識というのは
人間の集団のなかにいながら
「孤立」と「独立」と「自立」の組み合わせを要請する種類の行動であるために、
「誰にも拠らず自らの意思を支える」という必要とその手段があって
初めて可能になるものです。

この世界に対する「あるもの」への認識は、
わたしの言葉を支えるために必要なものです。

金曜日, 9月 07, 2007

宵っ張りのジェラート

今日は少し気を緩めています。
フィレンツェは福岡に似ていて、
夜遅くまで人が歩く姿ややわらかい雰囲気があります。
夜の通りでひときわ目を引くのがジェラート屋さんで、
12時を過ぎてもショーケースから
甘い香りが街ゆく人を無邪気に誘っています。

男も女もジェラートをよく食べます。

街には恋する人もたくさんいて、
それはあるべきようにあるような気がして、
なんとなくあたたかくて微笑ましい感じがします。

多分それは、「生きていく」ことと「恋すること」を
分けている認識から生じているようにも思います。
「生きるとき」と「生きるのを終えるとき」は
神さまが決めてしまうことで、
「恋すること」は自らがそう思ったことだ、
そんな風に言いたげな感じなのです。

「恋」に文字通りの「両想い」は決してありません―
それは「片思い」と「片思い」の寄り添いです。
どんなに相手を好きであったとしても、
どんなに相手が自分を好きだと思ったとしても、
相手は自分の思う仕方で好きになってはいないし、
自分もまた相手の望む仕方で好きになってはいないのです。

どんなに「私はあなたの望むとおりに」と思っていても、
それは自らが望む通りのことであって
相手が望む通りにはなっていないし、
「私がそう思うのだからあなたもそう思うはず」は
全く成り立ちようがありません。

それらすべてに十分すぎるくらい認識を持った上で、
なお相手を好きにならずにいられない
自らの思いに気づくのなら―
それは真の恋を突き止めているのだと私は思うのです。

そんなことはあり得ない、と人は言うかも知れません。

助け合って生きていかないと言っているのではないのです。
大切にしないと言っているのでもないのです。
そして私が思う「真の恋」でなくても構わないと思うのです。

でもどんなに自己犠牲を払うのだと言っても、
それはあなたがあなた自身を好きであるだけで
相手を好きであるわけではないのだから、
そんな状態のままで
私はあなたが好きだとは言って欲しくないのです。

「恋する」ことの本質は「恋を認識していること」にあって、
「恋するから何かをする」ということではありません。
これはただ言葉遊びをしているのではなくて、
恋というものはいかなる他の方法によっても
表現できないのです。

それは風に似ていて、
空気を捕まえることができても
吹く風を閉じ込めておけないのと同じです。

誰かに好きになって欲しいのではないのです。
誰かを好きにさせたいのでもないのです。
ただわたしはあなたをを好きであることに、
ただ本当にそう思うことに気付いていたいのです。