木曜日, 2月 28, 2008

アナロジーがきかないもの

画面が光っているからなのか、
ディスプレイの文字はいつも読みづらく、
しかも画面は単一なのに内容が頻繁に切り替わるので、
それは「データ」ではあるのですが、
紙に書かれたデータと違い、どこか生き物のような
感覚を持ってしまいます。
コンピュータは決して紙に代われないのではないか、と
ふと思います。
たとえばコンピュータが架空の書棚を作り出し、
そこから「本を取ってノートに書く」ようなことをすれば
問題は解決したように見えますが、
結局のところそれは「現実の紙の概念」をコピーしただけであって、
紙の概念そのままだということになるのです。

アイグラスとグローブを使って、
情報の世界という「部屋」を作り、
コンピュータらしい複製や検索や演算の機能と
現実空間を混ぜてしまうと、
それは「魔法の世界」で遊んでいるのと同じことです。

結局脳は、脳だけで思考するにはもう限界があり、
体の記憶に助けを求めてきたような印象を受けます。
コンピュータで仮想空間を作るということは、
結局身体性が知性の方向を規定したことと同じです。

車と人は「システム」としてみると
とてもよく似ています。
心臓はエンジンで、エネルギーがガソリン、
循環器は水循環と油循環、
電気製の神経があって恒温調節のエアコンもついています。
最近は履歴や故障診断までする
高性能のCPUという頭脳もつきました。

心臓手術は精密なもので、
エンジンのシリンダーブロックをオーバーホールするのと
とてもよく似ています。
循環系の治療はオイルのフラッシングやクーラントの交換に相当します。
体の老化は酸化に由来するとされ、
抗酸化物や皮膚ケアをするように、
車のボディが錆びてしまうから
防錆したり塗装したりするのも全く同じです。

このアナロジーの中でがんはどうだろう、と
ふと考えました。
がんは正確には「細胞の設計図の故障」に相当するもので、
分裂が止まらなくなってしまいます。

がんが車のアナロジーではなかなか説明できないことに
意識が向いています。
そこでがんは極めて生物的な現象だろう、と
ふと思いました。

わたしたちは石や純粋な水や、いわゆる「非生物」に対して
特別の考慮を要しません。
動物愛護の問題にしても、環境保護の問題にしても、
考慮を要するとされるのは常に生物です。

自らへの愛の拡張が世界の愛の具現になるというのは
心理療法家や宗教家の中に共通の思想が見られます。

一方で生き物は種を残すために個体数の調整を必要とする場面があります。
象の保護区で増えすぎたことを心配する向きがありますが、
他の共生する生き物の中で相手の個体数を調整する場面というのは
存在するのだろうか、と考えることがあります。

車社会で程度の良い車が増えすぎると、
新しい車を作るためにはそれなりに走る車にあれこれと理由をつけて
スクラップにしなければなりません。
小さな村で食料の供給が限られた集落では、
養老孟司の本にあるように「生存調整」を行わなければなりませんでした。

人の機能と「意識」の分離について考えると、
人の機能は化学プロセスの上に成り立っていて、
気分の高揚や抑うつが化学的反応によって説明できることが
分かってきました。
一方で、その化学的反応と「意識」のあいだに
接点をいまだ見いだせずにいます。

人のニューロンモデルは多入力1出力の集まりで、
出力は0と1のような閾値を持ちます。
それらを繋いだ線の信号重率が変われば機能が変わり、
ある日人間をどう育てるかが科学的に決められるだろうと考えています。
それらを踏まえてもなお「意識」というものは分からないのですが、
しかし「意識」はつねに「脳の機能」の結果を観測しているとするならば
正確には「意識」を取り扱う必要はなく、「脳の機能」を取り扱えばよいことになります。

確かに「意識」は「人が機械である」ことを拒絶します。
しかし「人がよくできたマシンである」という説明には
なんの否定もはさむことができません。
車が何を考えているのか分からなくても、
油を差し手入れをすれば順調に動き出すように、
人の意識が何であるかわからなくても、
人という機械の手入れをしてやれば、
それにつながれた意識はそれで事足りる、ということになります。

いつか、人の機能についての疑問がなくなる日が来るでしょう。
しかし、その日が来てもなお、意識の問題だけは人の存在には残るでしょう。
その意識の問題は、人ではない存在になったときには
解決するのだという気がしています。

都会とは珊瑚礁の海

最近うどんをよく食べています。

土曜の昼にNHKを見ていると
グレートバリアリーフの話題が出てきました。

美しい、色とりどりの海洋生物と
透き通って澄んだ海は、
しかしえさとなるプランクトンが少ない海である、と続き、
それは食べるということからすっかり離れてしまった
都会のように見えました。

「清潔さとは他の生物を排した状態」というくだりは
従軍宣教師を研究している方の言葉で、
ふと「聖なるもの、美しいものと排他性」の緊密な関係について
意識が向くことがあります。

美しいものを希求するのは
何も人間だけではありません。
熱帯魚はその体の柄で自分をアピールし、
そして柄には「流行」があるとさえいうのです。

無生物は物理法則とは関係のない「美しさ」を希求しません:
私たちは宇宙の色や原子の形に「美しさ」を見いだしますが、
宇宙の色や原子の形は生物の認識以前に「ただあった」のであり、
それが「美しい」と感じるかどうかは人によります。

小さい頃、
この世界には二つの宇宙があり、
外的な物理的宇宙から小さなかけらを取り出し
ボトルシップの船を組み立てるようにして内的な宇宙を作っているのだろうと
考えたことがあります。

認識とは外界の宇宙の姿と、
内界の宇宙の姿が透明なスライドに重ね合わせて表現されているような世界だ、と
時折思います。

河合隼雄の本の中に、
自己の存在は絶対性をもつもの、というくだりがあり、
ここで「絶対」とは「相対的でない」という意味と
「二つの対ではない」という意味を持ちます。
あらゆるものが相対的だといったのはアインシュタインで、
そこから「相対性理論」の名前はついています。

この世界をいくら眺めてみても-
この世界の中は相対的であることを示しています。
古く言い尽くされた昼と夜の、天と地の、男と女の、生と死の対比は
どこまでも相対的存在です。

「二つの宇宙」はそれぞれが独立です:
外界の太陽とは別に体内時計があるように、
必ずしも生物は外界に順応しきっているわけではないのです。
それはもしかしたら、ある日太陽が消滅して
夜ばかりの世の中になっても順応できるようにと
意識してのことかもしれません。
隕石衝突で滅んだとされる恐竜の後を生き延びた生物は、
長い闇と吹雪の世界を経験しています。

人間は3と言う数字に特別な意味を見いだしてきた、と
河合隼雄の本は続きます。
世界には相対的な二つのものしかない、とすると、
どこかからもう「一つ」の独立要素を含めることで
この世界の「3」が揃います。

最後の一つを、人間は自我と呼んでいるのだろうか、とふと思います。

水曜日, 2月 20, 2008

ノートパソコンのそばのノート

帰りの運転で聴くFMでは「生と死」についての記事を集めていて、
ある地域では自殺した遺体をみんなで袋叩きにする、
それはその体には悪魔が取り付いているとみなされるからだそうで、
生命とは生命を維持する存在であるという認識を
優先させた思想だと感じました。

ひとつのツールで仕事がなぜできないのだろうと
時々不思議に思います。

ノートは演算とコピーに向かないし、
パソコンはメモ代わりには使えません。
「ノート」の代わりになるべく、という願いで作られたような
ノートパソコンには、
しかしながら仕事で使うために
傍らにノートをおく必要が生じます。

ノートパソコンから「ノート」の機能を奪うことはほとんどできず、
「教科書と電卓と電話」の代わり、といったところでしょうか。

火曜日, 2月 19, 2008

FMラジオ

おひさまがのぼって
あたたかいかようびのあさです。

iPodにラジオをつけてチューニングすると
建物の奥ではNHK FMが一番感度よく聴けます。

NHK FMは昔から外国のクラシックとかギター音楽を
よく流していて、
どうして日本発の曲ではこんな風に安らぐ曲がないのだろうと
複雑な気持ちになったりして、
しかしその感情が、
普段わたしが取り除きたいと思っているナショナリズムを
根底にもつものであることにふと気がつきました。

生物学者と話をしながら、
国の誇りというものが郷土愛に根ざすものであると
いうところでやや押し問答をしています。

優越、つまり他の国より勝っているとか
独自性、つまり他の国にはないものであるとか、
つまり誇りというのは一種のこだわりです。

世界の物質には境界がないといい、
しかし「わたし」はいつも現れるのです:
「わたし」の認識は食べ物や外界の刺激で
ある規則を持って変わってしまいます。

ケン・ウィルバー「無境界」を読んだ後なのに、
「わたし」は「わたしの体」の境界を出てはいけないのではないか、と
ふと思いました。
わたしにわかるのは五感と過去の記憶だけで、
木星の裏側は「わたし」ではないのです。

わたしが「わたしのからだ」の中に閉じている限り、
実はナショナリズムは「存在しない」ことになるのでしょうか。
しかしひとはその発生にへその緒を使うように、
生活を始めてもその糧を必ず海と大地に求めます。

海とは不安定な場所です。
人は海の中に住み続けたためしがありません。
しかし一人で立つようになった人間にとって
本当の母は人間ではなく海にその役割が移ります。

父である空の藍と母である海の蒼の間に、
きっと人はあるのです。

月曜日, 2月 18, 2008

モノズキ日本人

時折非通知の電話が携帯にかかってきます。
しかしそれで誰かすぐに気がつくほど
わたしは鋭くありません。
かけるのを遠慮するか名前入りでかけてくれるか
どちらかにしてもらえないだろうか、と
ふと思います。

高速の料金所がETCになるときに
特に従業員から反対の声が上がらなかったのだろうかと
時折不思議に思っています。

極端な例ですが、
フランスの役所では人減らしに反対するために
わざわざほとんどの書類を紙ベースにしているのだそうです。

日本人は多分日本が狭いと思っています。
しかし広く開けた田舎町に住みたいとはほとんど言いません。

都市化した社会の機能は
都市においてなされる、と言うのは都会人の錯覚で、
化学プラントも工場もみんな海のそばや郊外にあります。
都市は地域からの入力を消費するか加工するか転送するか
主にそれだけで成り立っていて、
書籍や映画などのメディア的機能が例外的に産物となりえますが
都市は物質的産物を基本的に持ちません。

高速道路や鉄道が高額であるというのも
遠くへ行く大きな障害になるとよく言われています。

自動販売機の設置密度がこんなに高い国が
他にあるのだろうか、と不思議に思います。
日本人は人にお金をつけません:
「自動化できる何か」には積極的にお金をつけます。
ロボットが流行り出している理由の一部はそのせいだし、
それはマッサージ機の延長でもあります。

30万円のマッサージ機と、
たとえば月1回3000円で人にマッサージをしてもらうのとでは
8年経ったら同じになります。
マッサージ器を買ったら
確かにいつでもマッサージしてもらえるのですが、
効果がずいぶん違います。

8年経ったときにマッサージ機が手元に残るという点で
マッサージ機は利点があるのかもしれませんが、
故障して5万円かかったらどうするのだろうとも
ふと思います。

壊れない白物家電のように
火加減まで気にしながら黙々とご飯を炊いたり
洗濯をする機械がいて、
「機械は人を便利にする」と思っています。
それは機械に仕事を奪われている過程でもある、と
ふと感じることがあります。

機械化は地方の生産者にとって福音かもしれず、
しかし「人的サービスによる労働」だけが仕事となる都会では
機械による自動化が人と争うことになります。

「たまに失敗するかもしれない」が
「時々すごくうまいものが食べられる」手作りよりも、
「ほとんど失敗しないが毎日全く同じ味」の既製品を好むのが
おそらく日本人のようです。

かさ地蔵の例ではないけれど
石でお地蔵さんを作ったら知らない間にいいことをしてくれた、というのが
日本人の思想には埋め込まれているのかもしれません。
人間にとって他人という人間は理解がややこしく、
日本人は炊飯ジャーの方が好きなのかもしれないのです。

日本には多分、仕事がないのではないのです:
ただその仕事を積極的に機械にやらせようとしています。
それはもしかしたら大航海時代に奴隷と言う制度を持とうと躍起になった
ヨーロッパ人からしてみると、
機械という奴隷を作り続けている日本人、と
見えるのかもしれません。

一神教のように扱われているキリスト教だと思う人たちにとって
信者以外はもしかしたら人間には見えないのかもしれず、
それはほとんどが宗教の名を借りたナショナリズムやエゴイズムであって、
科学者の中でも聖句を
適当な免罪符に使っている人をわたしはよく知っています。

人はそれを見分けることができないのでしょうが、
当の本人がその人自身と向き合う神に後ろ指を指されます。
自らの神に真剣であるよりも
人は楽するのが好きだ、という
ありふれた結論に向かって今日は結びます。

水曜日, 2月 13, 2008

モノローグな人間に出会う

曇り空の朝は明け方がいつもより遅くやってくる気がして、
季節が少し逆戻りしたような気持ちになります。

人が言葉を話す「もの」だとしたら、
本は「ずっと同じことを話しているもの」と考えてもよく、
時折いろんな文字が目に留まります。

医学界新聞の中に名越康文さんのコラムがあり、
小学校4年生のときに
「なんで人は死ぬのか。
死ぬのであれば、なぜ生まれてくるのか」と
悩んだ、というくだりがありました。

もちろん答えは書かれておらず、
また意見も述べられておらず、
ただ問いを発したままの文章ですが、
これが一番共感できる中身でした。

「なぜ人は死ぬのか」を確かに人は知りません:
しかし「なぜ人は生きるのか、なぜ死ぬのか」と人生をかけて問う人に出会った時、
わたしは一番ほっとするような気がします。

時折考えるくらいの人はたくさんいると思います。
ずっと考えている人もたくさんいるのかもしれません。
でもなんとなくこの問いを考え続けてくれる人は
とても少ないような心細さがあります。

たとえば、わたしのために祈ってくれなくてもいいのです。
救いの手を差し伸べてくれる必要もほとんどありません。
わたしが誰かに望むことがあるとすれば、
「なぜ生きているのか」への真剣な問いを
その人自身の問いとして持ち続けてくれること、
そして時々考えたところを聞かせてくれること、
その一点にあるような気がします。

そのときだけ、なぜかはわからなくても
「生きていてよかった」とは思えるのです。

考え続けることは保存して取ってはおけません:
わたしはいつまでも考え続けています。
それがわたしに似た誰かの願いに似ていればいいなと
時折思います。

火曜日, 2月 12, 2008

人間は原理的に人間の問題を解決しない

白いものばかりで鍋を作ろうと思いたち、
白身の赤魚、鱈、カレイ、手羽元、
えのき、豆腐、白菜、かぶ、うどんを材料にしました。
さわやかな食後感でした。

この世界に人間がわたしひとりしかいなければ、
法律が定めるところの罪の問題は生じません。
罪とは人と人の間に生じるものだからです。
宗教的には自殺を罪に規定しますが、
その場合天国に行けないことと墓で弔ってもらえないという
「社会的死」が認められないだけで、
一人しかいない人間がいなくなったところで
それを裁く別の人間はいないのです。

安藤昌益は集団生活を必要とする社会は
その構造自体に問題が生じると考えました。
自分が住むよりはるかに遠くで採れ作られる物質を
必要とすれば世が大乱を起こす、というのです。

地産地消ということばがあって、
その土地でできたものをできるだけ取り入れようという思想で、
これを究極的に突き詰めると安藤の思想になります。

たとえば日本人にとって
バナナが不可欠な食物であるかどうかはわかりませんが、
日本がバナナを輸入することで地球の遠い国との接点ができ、
そのシステムにまたがって生活する人が生じることで、
ある地域とある地域に物質的接続を生じます。

人間に「意識」を抜きにして考えれば、
人間の知覚は全て体という物質を通して生じます。
たとえばほとんどの人にX線は見えません。
いくら太陽系の動きが計算できたからといって、
太陽の一区画で生じる
フレアの発生時間まで予想できるわけではありません。

人間が脳のサイズで規定された分以上の能力を
人はもっていないのです。
だから脳が限界まで複雑になったとしても、
この世界の複雑さを再現することはできないのです。

分子コンピューティングという技術があって、
計算体系にDNA様の鎖になる物質を使います。
問題に相当する鎖をビーカーに放り込んで混ぜると、
答えだけが長い鎖になって現れる、というのだそうです。

世界全体をシミュレートするには
つまり「もうひとつの宇宙」をどこかにつくり、
その様子を非干渉的に測定すれば完了します。

人間はどうにかして人間の問題を解決しようとしているのは
実は集団あるいは都市に生きる人間に固有の現象かもしれません。

冬のない国、たとえば赤道に近い国では
働かなくても食べ物が採れ、
その地域における集団の役割は
より環境の厳しい国での集団の役割よりも緩やかです。

ひとは「母なる大地」と名づけましたが、
天が父で海が母である、と最近思っていて、
多分地は父でも母でもありません。

人間の問題が一向に解決しないのは、
あなたやわたしが人間であるからであって、
人間ではない上位概念になれたときには
人間の問題を「解決したもの」として取り扱えるでしょう。

あなたは人間であると自らに認める限り
人間の問題を背負う必要はありません。
解けるかもしれない問題は解く努力ができますが、
解けないとわかっている問題を解くことはないのです。
自分の体の問題を解決するのが人間の意識の目標であるように、
人間の問題を解決するのはあずかり知らぬ上位概念の目標です。

光速以上の速度を持つ世界は
光速以下の世界からは到達できませんが、しかし禁止されておらず、
上位概念は光のカーテンの先にあるのかもしれません。