アナロジーがきかないもの
画面が光っているからなのか、
ディスプレイの文字はいつも読みづらく、
しかも画面は単一なのに内容が頻繁に切り替わるので、
それは「データ」ではあるのですが、
紙に書かれたデータと違い、どこか生き物のような
感覚を持ってしまいます。
コンピュータは決して紙に代われないのではないか、と
ふと思います。
たとえばコンピュータが架空の書棚を作り出し、
そこから「本を取ってノートに書く」ようなことをすれば
問題は解決したように見えますが、
結局のところそれは「現実の紙の概念」をコピーしただけであって、
紙の概念そのままだということになるのです。
アイグラスとグローブを使って、
情報の世界という「部屋」を作り、
コンピュータらしい複製や検索や演算の機能と
現実空間を混ぜてしまうと、
それは「魔法の世界」で遊んでいるのと同じことです。
結局脳は、脳だけで思考するにはもう限界があり、
体の記憶に助けを求めてきたような印象を受けます。
コンピュータで仮想空間を作るということは、
結局身体性が知性の方向を規定したことと同じです。
車と人は「システム」としてみると
とてもよく似ています。
心臓はエンジンで、エネルギーがガソリン、
循環器は水循環と油循環、
電気製の神経があって恒温調節のエアコンもついています。
最近は履歴や故障診断までする
高性能のCPUという頭脳もつきました。
心臓手術は精密なもので、
エンジンのシリンダーブロックをオーバーホールするのと
とてもよく似ています。
循環系の治療はオイルのフラッシングやクーラントの交換に相当します。
体の老化は酸化に由来するとされ、
抗酸化物や皮膚ケアをするように、
車のボディが錆びてしまうから
防錆したり塗装したりするのも全く同じです。
このアナロジーの中でがんはどうだろう、と
ふと考えました。
がんは正確には「細胞の設計図の故障」に相当するもので、
分裂が止まらなくなってしまいます。
がんが車のアナロジーではなかなか説明できないことに
意識が向いています。
そこでがんは極めて生物的な現象だろう、と
ふと思いました。
わたしたちは石や純粋な水や、いわゆる「非生物」に対して
特別の考慮を要しません。
動物愛護の問題にしても、環境保護の問題にしても、
考慮を要するとされるのは常に生物です。
自らへの愛の拡張が世界の愛の具現になるというのは
心理療法家や宗教家の中に共通の思想が見られます。
一方で生き物は種を残すために個体数の調整を必要とする場面があります。
象の保護区で増えすぎたことを心配する向きがありますが、
他の共生する生き物の中で相手の個体数を調整する場面というのは
存在するのだろうか、と考えることがあります。
車社会で程度の良い車が増えすぎると、
新しい車を作るためにはそれなりに走る車にあれこれと理由をつけて
スクラップにしなければなりません。
小さな村で食料の供給が限られた集落では、
養老孟司の本にあるように「生存調整」を行わなければなりませんでした。
人の機能と「意識」の分離について考えると、
人の機能は化学プロセスの上に成り立っていて、
気分の高揚や抑うつが化学的反応によって説明できることが
分かってきました。
一方で、その化学的反応と「意識」のあいだに
接点をいまだ見いだせずにいます。
人のニューロンモデルは多入力1出力の集まりで、
出力は0と1のような閾値を持ちます。
それらを繋いだ線の信号重率が変われば機能が変わり、
ある日人間をどう育てるかが科学的に決められるだろうと考えています。
それらを踏まえてもなお「意識」というものは分からないのですが、
しかし「意識」はつねに「脳の機能」の結果を観測しているとするならば
正確には「意識」を取り扱う必要はなく、「脳の機能」を取り扱えばよいことになります。
確かに「意識」は「人が機械である」ことを拒絶します。
しかし「人がよくできたマシンである」という説明には
なんの否定もはさむことができません。
車が何を考えているのか分からなくても、
油を差し手入れをすれば順調に動き出すように、
人の意識が何であるかわからなくても、
人という機械の手入れをしてやれば、
それにつながれた意識はそれで事足りる、ということになります。
いつか、人の機能についての疑問がなくなる日が来るでしょう。
しかし、その日が来てもなお、意識の問題だけは人の存在には残るでしょう。
その意識の問題は、人ではない存在になったときには
解決するのだという気がしています。