ナショナリズムが意識されるとき
気分が昂ぶっていることがあって、
塩を2グラムぐらいとDHCのカルシウム/マグを10錠ぐらい、
加えてプロテインミルクを飲むと体が落ち着きます。
でたらめな処方のようですが、
半年くらい調べた結果です。
体が落ち着いたからといって
それで万事解決と言うことはまるでなくて、
問題として持っている意識は少しも変化していません。
テレビでスケートやスポーツ競技を見ると
国民の代表という視点が少なからずあって、
ナショナリズムについて無視できなくなることがあります。
各選手はそれぞれのベストを持って競技に臨んでいて、
しかし解説や観客は国同士の戦いのように表現することがあって、
そのたびに違和感を覚えます。
ニッポンが勝ったら嬉しい、ニッポンが負けたら悲しい、とは
言いたくない、と人に話すと、
それは変だ、この国の誇りと自覚はないのか、と
暗に聞かれているような雰囲気になることがあります。
ニッポンが勝てば奉り上げられ、
ニッポンが負ければ文句を言われるか無視される事態に当惑するのは、
評論するその人自身が努力した訳ではないのに、と
感じるからです。
自分の身の上について評価するのは妥当ですが、
自分と国を一体化した視点で話をするのは変だと思っています。
それでは何か、あなたはこの国がどうなってもいいと言うのか、と
聞かれるような事もあって、
しかしその視点は「仲間意識がないと不安が増える」という
半分無意識に根ざした感覚から問われていると感じます。
不安の解消のために仲間が必要だとは思わず、
純粋な喜びの共有のために仲間が必要だと思っていて、
不安から仲間を作るのであれば
それは束縛であって自由はありません。
個人はあくまで個人です。
国というものが個人の意識のベースに大きな影響を与えることはあっても、
個人と国が同一の視点になることはありません。
久しぶりに新聞を読むと、
中国では昨年暴動が11万件あったという記事が出ていて、
それで考えることになりました。
行動に訴えるなんて、と新聞の論調は言いたげなのですが、
暴動の中身はたとえば貧しい家の子が病院で手当をしてもらえなかったことに
地元住民が腹を立てたとか、
求めることに対して市民が立ち上がれる土壌があって、
また政府や法に対して国民は信じることを基本としないベースの思想があって、
その流れで見ると訴えを起こせることはある意味で必要なことです。
ただ意識の一番奥底に「不信」があるというのは
個人的には哀しい気がします。
中国の思想書にその影響はあるのかもしれなくて、
「この世界で信じられるのはわたしだけだ」と説いた本の一節を
よく目にします。
一生のうちで何度も国がひっくり返るような歴史では
どうしてもそうなってしまうのかもしれません。
ただそういう世界であっても、
ひと括りに国で人を判断するようなことはせず、
自分が出会う一人の人として向き合っていこうと思っています。
隣の国であり、漢字も文化も大量に輸入しているのに、
思想のベースがこれほど違っているのはなぜだろうと不思議に思います。
「個人」という区分を取り去ってしまおうと思ってから、
こういった思想について自我を持って誰かと話し合おうとする姿勢はなくなってしまい、
人が語る「主張」によく耳を傾け、
そういうこともありますよね、とよく理解しながら聞くようになって、
人の関係はなんだか円滑になったりするのかもしれませんが、
わたしが持っている思想はやはりどこか違っていて、
ずっと以前に一人でいなければならなかった頃のように
わたしは「目に見えない誰か」に自分の気持ちを話しかけています。
それで大抵の日は事足りるようになりましたが、
こういうことを存分に実在の誰かと語り合えたらどんなにかいいだろう、と
やはり思う日があるのです。