木曜日, 3月 08, 2007

脳は入力端子が足りない

今年の東京の開花予想日はわたしの誕生日です。
この日はたいてい卒業式の日でもあります。
4月1日まで別れと出会いの2週間です。

マリオネットは「あやつり人形」で、
なぜかこの言葉には好ましい印象が当てはまりません。
日本風に言うなら人形浄瑠璃でしょうか。

マリオネットの動きを出す仕掛けは
十字に組んだ木片に糸をつけて
人形の各部に結び付けたものです。

人形の各部が動くかどうかは
糸がそこに結びついているかどうかで決まります。
間接的には二つの糸の動きの差を利用して
結びついていない部分の動きを定めることができます。
この場合糸のない場所の動きと
糸のある場所の動きは連動し、
二つの場所を独立に定めることはできません。

制御理論のシステムへの適用の際に
その系が可観測、可制御であるか議論されることがあります。
可観測はその系の状態を完全に決めるための情報が
系に繋がれたモニタの出力値から決定できるかどうかの判別で、
可制御は観測量から求められた出力によって
系の運動を決定できるかどうかの判別です。

脳はもちろん入力と出力をもつ器官ですが、
一般に制御系を「出力」とみなすように、
脳は出力器官として見られます。
表情の発生、意思の発生、記憶の再生、行動の発生など、
外界、つまり物理的世界にとって
脳の出力は入力より重要視されます。

脳が専ら出力であるのはあくまで物理的現象に対してであり、
個人の「意識」にとって脳の一切の働きは入力となります。
そして脳は光を入力され、温度を入力され、
触覚を入力され、音を入力され、
その他さまざまなものを入力されます。

思い浮かぶこと、思考することは
脳の出力端子の一部を脳の入力端子につないだ状態です。

脳の出力能力側を試されることは頻繁にあって、
運動にせよ会話にせよ
それは脳の出力側の話です。

入力と出力を読み替えると
外界の反応を出力とすることを学習と呼んでいます。

脳は一般に体の自由度に対してサイズオーバーであり、
もし人に手が10本ついていたとしたら
脳のサイズ的にはそれを完璧に動かすことなど朝飯前です。
そして脳は体を動かすだけでは飽き足らず
物を作り、社会を構成して、
脳の限界まで大きなシステムを要求します。

脳が体に対してサイズオーバーであるということは
重要な意味を持っていて、
それは視点を反転させて
「脳」をマリオネットの人形側、
「体」をあやつり人形の糸と組み木側とした場合、
マリオネットには関節の可動部がやたらとついているのに
それに対応する糸が足りないことになります。
糸を使うだけではマリオネットはチェーンのように
形を定めることができず、
「何をやっても満たされない」という、
つまりいかなる外界の刺激によっても
脳は満足する状態へ制御できない場合があるという
誰もが経験する現象を発生します。

つまり、脳は体=外界をほぼ制御できますが
体=外界の刺激のみでは絶対に脳を制御できません。
もし制御できる可能性があるとしたら、
その方法は脳自身の一部を出力として
脳自身の入力と結びつけることだけです。

脳の働きにほぼ直接接触できるものは「シンボル」で、
これは顕在側の思考がシンボルを必要とすることと
深い関係があります。
本を読むことは知覚のようでいて、
実は脳自身がシンボル=文字を翻訳し脳に再入力することです。
曲を聴くことも全く同じで、
知覚を脳によってシンボル=音の流れ化します。
そして脳はあちこちが繋がっているので、
記憶はあらゆる連想と連動します。

だから物としては紙とインクでできた破れかけの小説が
人に涙させることができるし、
ノイズの乗った古いラジオの曲が
人に過ぎた昔の記憶を呼び起こすことができます。

そしてこのシンボル化は知覚よりも圧倒的に強力で、
人の動き自体に影響を与えます。
ペンは文字というシンボル、剣は体による直接的な入力であるなら、
体が感じる死の存在さえ思想は乗り越えてしまう、
「ペンは剣より強い」という言葉はそれを端的に示しています。
この原理を応用しているから
法は「言葉」という形のないものであるにもかかわらず
社会を構成する要件となります。
自爆テロを起こす人が「死ぬと天界に花嫁が待つ」という思想を
信じている、これは脳と知覚のバランスを考えると
自然な話のように聞こえてしまいます。

この感覚をもうすこし延長すると、
たとえばおいしい食事でいつも満足できるのであれば
これは体の入力で脳を制御できる好ましいことかもしれません。

しかし人はその生きた時間に応じて
脳の能力が幾何級数的に増していき、
シンボルは時間に応じて重要さを増してしまい、
だから「何をやっても満たされない」は
強力になりすぎた脳の制御不能状態なのかもしれません。

いままでの話がおよそ合っているならば
その満たされない最中で思い出さなければならないことは、
「満たす何かを外界に求めて探しまわり、
満足する強度の強烈な入力を求める」ことではなく、
「わたし」という脳が「わたし」を制御することです。
そして「自分の最大の敵は自分」というありふれた台詞は
「わたし」という脳と「わたし」という脳の対立状態となります。

しかし「わたし」が「わたし」の敵なら、
わたしはわたしと争う必要は本当はないのです。
なぜなら、脳と体の力関係から連想するなら
脳がシンボルを振りかざして自身と争うことは、必ず体の反応になって、
この外界に争いをもたらすことになるからです。

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