水曜日, 3月 07, 2007

物理が問う悩み

電車の中で自分の記憶を思い出していると
ふと眠たくなり、目覚めたら降りる予定の品川駅でした。
4時半は雨が降っていて、
500円のビニールジャンプ傘をコンビニで買いました。

科学、といった場合、その実行力の源は
おもに物理と数学と実験の三重接点に存在しています。
実験に対して仮説を立て、
物理は数学の一部を使って「閉じた話」を作ります。

物理の困ったことは、何も実体として力を持つだけではなく、
正しく証明されると翻すことができない点にあります。

非線形微分方程式の議論から発展したカオス理論と
地球の大気のシミュレーションが結びつくと、
日本で蝶の羽ばたきがあるかないかで
アメリカの竜巻が発生するかどうかが変わる、という
「無限小の誤差は巨大なシステムに無視できない影響を与える」
というたとえに結びつきます。

この話、たとえが「蝶」にしてあるのにはおそらく理由があって、
ある連想をしないように誘導しているではないかと感じるのです。

「蝶」を「わたし」に置き換えると、
わたしがこの瞬間に東に向かうか西に向かうか、
ただその選択を変えるだけで
この世界には無視できない影響が発生し、
それはある場所で竜巻を発生させて誰かの生を失わせ、
ある場所では津波を食い止めて誰かの生を保存する、
ということになってしまいます。
わたしは「かたち」である限り、そして存在する限り
知らないある人の生を保ち、別のある人の生を奪う、
そういうことを繰り返していることになります。

生と死が人の通念でいう善と悪のままで固定されるなら、
わたしたちは一切の例外なく
自動的にみな賢者で、そしてみな罪びとです。
自らの選択によって、ただ存在するだけで人の生と死が決まり、
それを罪だと責められるのだとしたら、
もうわたしは「かたち」ではいたくないな、と考えることがあります。
しかし「かたち」であるわたしを手放したとしても、
わたしを構成するものはこの世界に拡散して、
ある日のある部分は誰かの飲み水になり、
またある日のある部分は銃弾の鉛になる、
それはまた誰かを喜ばせ、誰かを苦しめる、
だから「わたし」の「かたち」はいつまでたっても
善と悪の混在状態を離れることができません。

この思考の膠着状態から離れるには
宇宙の始まりに目を向ける必要があって、
超高温のビックバンの瞬間にはどんな生き物も存在せず、
また宇宙の時空はたった1つの不可分な点から発生していて、
従って本来善と悪に分離できるものは「この宇宙の中には存在しない」
という点で善と悪の分離を消すことができます。

それでも善と悪、ひいては生と死を想うのは、
自分の中に確かな生きる喜びを知る時間が与えられ、
それがとてもすばらしいものであると確信していて、
生の中に喜びがあることと
すべての人が感じられたらどんなに素敵なことだろう、と
そんな思いを持つからです。

だからわたしはものである部分がわたしなのではなくて、
すべての人に生きた確信を見出せるよう願うこと、
この世界では表出も証明も不能な意思、それだけが
わたしの持ち物であってほしいと思っています。

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