月曜日, 3月 05, 2007

問うこと自体の問い

縁あって田沢湖に行きました。
スノーボードをウェアまで借りると
1日3500円です。
スノーボードは2回目です。

自分が目覚めている間に思うことはたくさんあって、
それは決して口にされることはなく、
それらは聞けばきれいなだけの言葉でできているわけでもなく、
朝6時過ぎに苦しい気持ちになり、
7時過ぎに心が静かになり、
眠たさに誘われ、今すぐわからない場所の事情を思い、
流れる景色の美しさにほっとしたり、
気持ちは昂ぶってひどく不埒な気分になったり、
私自身に何かを問うことがあったり、
言えなかったたくさんのことに謝り、
納得のいかないたくさんのことに怒り、
思いを形にできぬたくさんのことに悲しみ、
そういうことを繰り返しています。
思考の一部を他人が覗くことができたら
どう思うだろうか、と不思議に思います。

この中で、問いかけの時間はずいぶん長くて、
なぜだろう、と思うきっかけを探すのに
少しも苦労しません。

しかし、どうしていろんなものを問い続けようとするのか、
その現象自体を問うことは発想しなかったように思います。
それは掛け算の九九のように体の一部になっていて、
自動的に問いが始まるような感覚です。

「問い」と「答え」のセットのようなものがあって、
学校で習い始めるのはこの反復です。
小学校には「自分で考え」から始まる標語が掲げられていました。

「問い」は主に言葉でできているので、
問いを作る段階は慎重に行う必要があります。
たとえば、言葉で「人はなぜ空が飛べるのか」と問いを発した場合、
人は羽根がないので空は飛べず、
「なぜ」に対する答えがありません。

「問い」が多く使われる場面は、
「私を揺るがすもの」に直面したときです。
その揺るがすものに近づきたい場合それは「興味」となり、
それから遠ざかりたい場合それは「恐怖」となります。




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