木曜日, 3月 15, 2007

最近聞く食育ということば

Bloggerのフォントサイズ設定画面が以前と変わっていて、
なんだ聞いてないじゃないか、とふと思ったのですが、
私に聞かなくても変わるものは変わるわけで、
脳はイレギュラーを処理しづらい装置のようです。

教育に対して食育という言葉があって、
大人は子供にあれこれするのが好きなようですが、
当の大人は新幹線に乗って
朝から浴びるように酒を飲んでいたりして、
それで食育という言葉について考えることになりました。

昔から医食同源という言葉があって、
この「医」は「医者」ではなくて「医療」か「治療」、「医薬」です。
空気、水と並んで体に「入力する」ものです。

何を積極的に取り入れるか、という問いに対して、
あれかこれかと探してみるのですが、
どの食品もそれなりに健康効果があって、
そのままでは「まんべんなく食べなさい」という
回答にしかなりません。

個人が感覚として身につけるのは
味覚として好みである食べ物と、
そのときの体の調子がよくなる方へ
向かわせる食べ物が一致するようにしておくことではないかと
思っています。

甘いものが味覚として好きで食べることと、
体の血糖値が下がって甘いものを食べることは
現象として同じですが意味合いが異なります。
前者は嗜好品としての食べ物で、
後者は治療的な意味合いにも取れる食べ物になります。

話題の健康食品についても、
人によって効くか効かないかが異なります。
これは医薬品でも同じで、
効く薬と効かない薬があります。

自分では気付かない変化を見るために
病院の検査がありますが、
検査結果が変化を反映しないことがしばしばあり、
この場合「病院では治せないが調子が悪い」になってしまいます。
こういうものを「本態性なんとか」と命名していて、
一見分かったような名前であり、
治療法は分かっていません。

担当医の専門によっても得意な症状は異なるので
見つけてもらうまでに時間がかかります。

郷土料理についても時折考えます。

材料は主に土地のものでできていて、
どう調理するか、どんな味にしているかが
その土地に住むために必要な構成になっています。
野菜を漬物にするのは、
野菜を保存して長期間食べるだけではなく、
発酵によってアミノ酸を増し、
労働で不足しがちな塩分を補えるようになっています。
それが生きるために重要だったので、
ヨーロッパではスパイスを金と交換してでも手に入れようとしました。

カレーは暑いけれど果物などの少ない国で
新鮮な果実が手に入らない場合に
殺菌や消毒のためにもスパイスを使い、
体調に応じて体を温めたり冷やしたりする成分を使って
調合して作られる食べ物です。
食べ物が体をその土地に慣れる手助けをしてくれます。


日本人の食はうまさという面が強調されますが、
体調に応じて食材を食べ分けるという発想はあまりなく
バランスが取れていて毎日違うものをという感覚のほうが
重視されているように思います。

好き嫌いなく食べられるようにする目的は、
どんな土地の食べ物でも食べて生きていけるようにするためと
そのときの体に効く食べ物を
感覚のみで嫌って避けないようにするためだと思っていて、
「好き嫌いがないから立派」ではないと思っています。

協和発酵の宣伝を見ていると
動物は体調に関する本能的な習性を持っていて、
習いもしないのに泥を食べて消化をよくしたり、
体調が悪いときだけ薬草を選んで食べたりします。
アラン・ド・ボトン「哲学のなぐさめ」のなかに、
ヤギは千種の草の中から薬草のディタニを本能的に探し、
しかし人間はモグラの肝とか鳩の血なんてもの、
当てになるかどうか分からないものを治療に使う、という
モンテーニュの引用があります。

人は「自ら環境を変え、その世界に順応する」ための部分が大きく、
だから飛行機に乗れる世界になったら
誰もがあっさりと空を飛ぶことに慣れてしまうのですが、
「環境に順応する」ことは「習性をなくす」ことと等価であって、
それで人間は「生きるための方法」を体の中にほとんど持っておらず、
長い時間をかけて世界の中から探し出さなければなりません。

動物がある程度本能という別種の知識で満たされているとしたら、
人間はほとんど知恵を持たずに生まれていることになります。
めぐりめぐってこの話は、
食べ物を食べるときには
自分の体調と食べ物を食べた結果の体調について
よく実験して知っておくことが大切だという提案になります。

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