月曜日, 4月 24, 2006

環境のみ引越し

久しぶりに日記を書きます。

環境が変わって疲れてしまうのは多分頭です。
違うものが一瞬で通り過ぎれば忘れるのですが、
見るものが変わったまま戻らないと
人の記憶が変わらざるを得なくなるからです。

本当に慌しい3月と4月を過ごしました。
少しずつ様子は日記に残していきます。

日曜日, 4月 09, 2006

3行広告

Citibank、三井住友visa、クレディセゾンでは
クレジットカードに敬称をつけることができませんでした。
宣伝どおりの国際化を願います。

木曜日, 4月 06, 2006

大氾濫した時計群

デジタル装置は周波数を出す発振器が付いていて、
そのクロックで演算をします。
発振器とカウンタがあれば
あっという間に時計が作れるため、
ほとんど全てのデジタル装置に「時計機能」が付いています。

少し部屋を見渡すと、
携帯電話、パソコン、iPod、壁の時計、電気ポット、
炊飯ジャー、ビデオ、オーディオのアンプ、固定電話、
洗濯機、果てはエアコンのリモコンにまで時計が付いています。

捨てられないと思っているのか、
企業の販促やプレゼントにはやたらと時計があります。
駅などには時計が必要ですが、
それ以外の場所で時計が「必要とされる場所」は少ないはずです。

商談では約束の時間が大事、確かにそうなのですが、
商談の中身よりも時間が大事になっては本末転倒です。

時計は一見罪のない便利サービスのようですが、
時間が気になって仕方がない、という点で
潜在的には大きな問題だと感じています。
現代人が時間に追われている気がするのは
もしかしたら時計の存在にあるかもしれない、と思いました。

時計や時間のことを考えているとき、
それ以外のことを考えないのですから、
時計が気になる人ほど生産性が下がることになります。

外国に行った先では
ここまでたくさんの時計を見ることはありません。
レストランに行っても探さないと分からないほどです。
これが落ち着く元かもしれないと思ったのです。

それで不要な装置に関しては
腕時計以外の時計機能表示をOFFにしました。
もうすこし発展させると、
時計ではなくてアラームを使うといいかもしれません。
時間を確認することに意識を奪われなくて済むからです。

この作業が良い結果を生むのか面倒になるのか、
しばらく試してみます。

欠けていた何か、埋まる何か

ようやく新しい研究室のネットワークに繋がりました。
まださほど荷物を持ち込んでいないのですっきりしています。

3月末までの実験は目標どおりの結果が出ました。
肩の荷が下りた気がします。

前の研究所に来てから、
理解されないまま進まなければならないことが
とてもたくさんありました。
説明だけでは志を分かってもらえず、
結果を出さなければ理解されない、
それがただの外部の他人であれば落とし所もあるのですが、
自分に近い人であるほど分からないことからくる反発が大きく
難しい思いをしました。

分からないことはたくさんあっていいのですが、
分からなくてもいいと居直ってしまうことは問題です。

結果によって分かってもらえたことは
わたしが3年位前にイメージした姿であって、
現在のわたしはまた違うイメージを持っています。
それが理解されるのも時間がかかるものです。

一番良い方法は「まず反対されないこと」で、
賛同しなくてもいいから放っておいてくれたら上々です。

結果が出る前に自分の志を認めてくれた人が
とても大事だと思います。
どんな結果も志がないと求まらないからです。

今の研究所はまだつながりが薄い分
なんとなく放っておいてくれていて、
それがとても心地良く仕事が進む原動力になります。

水曜日, 3月 29, 2006

社会と呼ぶものは具体的には何か

黒い色が好きです。
小さい頃緑が好きで、
しかし洋服として緑は難しいのですが、
黒のアクセントとしてきれいだと最近思います。

社会と呼ぶ厳しかったり不正が多かったりと呼ばれるものについて
時々考えます。

社会と呼ぶ実態のひとつは
「集団心理」の存在だと言えます。
個人ではできないことが集団ではできる、
中心的な意見に共鳴し同調してしまう、
このことが人の集まりに対して
良い作用だったり悪い作用だったりします。
個人としての人間と社会的な人間との乖離が強まると
「社会は冷たい」と「個人」の人間が表現するのです。

社会通念、モラルなどの一切は
どんなに偉そうなことを言っても集団心理の形成です。
どのような社会モデルを形成しても、
それを取り扱うのが人間である限り
社会モデルの全てがすべての人に当てはまるわけではなく、
現実的な問題は生じます。

木曜日, 3月 23, 2006

新聞を読みなさい、と人生の気忙しさの相関について

個人的にとても気分を害してしまう状態の一つに
「ついでに」と「ちゃっかり」があります。
そういう付き合い方をされると一緒に行動できません。

この二つ、なぜ嫌なのかをずっと突き詰めて考えると、
頼むほうに良いことがあるけれど
「ついでだから特に難しくないでしょう」というアプローチで
親切心を無言のうちに強要されるからで、
一人前に頼む責任を自分で負っていないからです。

親切心は要請されて出すものではなく、
その人への感謝の発露として自然に現れるものです。
貯金のように預けたり引き出したりするものではありません。

味噌っかすのような情けない頼み方をせず、
自分の願いを「ついで」や「ちゃっかり」で済ませようとしないことが必要だと
良く感じます。
社会的に一人前に扱って欲しいと思うのであれば
自分が要求したという責任を自分で引き受けることです。

新聞を毎日良く読みなさい、
社会のことがよく分かるから、とは
いつでもどこでも良く聞いてきた話です。
新しい情報はかなりエラーが多くて、
取捨選択も深い洞察も為されない生のものです。

この言葉に含まれる「本当のような嘘の部分」を
正確に表現できないかと時々考えます。

同じ情報を伝えるなら新聞だけ読めばいいのか、と
以前考えたことがあります。
週刊誌とか機関紙とか単行本には
どんな意味があるのか不思議に思った時期があります。

思考に関する二つの極を挙げれば、
早く知らなければならないことと、
熟考しなければならないことに分けられます。

速報が役立つのはたとえば台風の話、交通事情の話など
行動そのものに影響が出るものです。
隠されていた悪事などもいち早く引き抜かれなければなりません。

熟考が必要なものの最も普遍的なテーマは
行動が長期にわたるもので、
突き詰めれば自分の生き方に関わるものです。

速報で株の情報を知らなければ損をする、
このシステムを受け入れるならば人生はせっかちになります。

芸能情報が速報で「なければならない」理由はありません。
興行なんかは十分な宣伝の元になされるもので、
準備に大きな時間がかかるからです。

世の中には、原理的に早く動かなければ存在できない
宿命にあるシステムがあります。
銀行は通貨の循環量が増えることで手数料が増えるため、
経済がどういう状態であっても「激しく変動する」ことを要請します。
この要請に実体経済が連動してしまうのです。
資金余裕がなく開業した会社は
収入と支出の量がともに大きい必要があればあるほど
維持するのが難しい会社になります。

最近は銀行もただ資金を貸すだけでは成り立たなくなって、
コンサルティングで手数料を取ろうという向きに変わりつつあって、
この改善は好ましいものだと感じます。
しかし今度はコンサルティング技術の秘匿が問題になります。
お金がなければ情報が得られないことになるのです。

情報を売っている産業は大きくは新聞やテレビのメディアで、
小さく見るとガイドツアーの添乗員さんや結婚相談所などもあります。
芸能雑誌に載る「スクープ記事」と言う表現は
時々当たりで時々外れています。
紙面には「賑わっている」ことが強要される傾向にあるため、
ねたに困ったときなどはどうでもいいことが一面にやってきます。

無一文から巨額の富をなした人を
「アメリカンドリーム」と呼んで、
商社の人なんかはこれを夢見る傾向にあります。
この「アメリカンドリーム」に含まれるニュアンスは
「非常に短い期間で」たくさんの額の「お金を得る」ことにあります。

20年位かかって十分裕福になる、でいいと思います。

こんな話を年上の人にすると、
「最近の人は競争心や向上心がない」と揶揄されることがかなりあります。
競争して富を奪い合うことが競争心ではなく、
ただ地位的に上り詰めることが向上心ではないはずです。

自分を高めるための努力に競争心は必要ない、というだけです。

向上心がない、と言う人たちのある種の本心は、
「誰かが頑張ってくれたらおこぼれで生活できるのに」という
コバンザメ的な卑しい発想を多分に含んでいます。
夢を持て、希望を持てと大きな会社の社長が謳う言葉には、
若者ががむしゃらに走ってくれれば
我々は左団扇で暮らせる、という意味を含有しています。

若者はもっと十分に賢くならなければならず、
これらの嘘を自発的に徹底的に見抜いていかなければなりません。
ファラオ王が何よりも知恵が欲しいと神に頼んだのは、
嘘は見抜けば破壊できることに気付いたからです。
情報の秘匿ではなく
知らないものにもっと生きる知恵を与えること、
そんな意思に基づく活動を広めて行きたいと思います。

金曜日, 3月 17, 2006

電波ぐらいの繋がり方

何か曲が聞きたい、しかし聞くと頭に響くというのは
最近のオーディオは猫も杓子も音質が良すぎることにあります。
カセットテープやラジオのFMで聞いていた頃は
ノイズも音のひずみもあったのですが、
もう少し何かほっとしたものです。

繋がることは絶対善ではないとふと思います。
継続サービスを謳うものは全て
繋がることの効用を説きますが、
それは拘束条件であって、使い方によっては
長屋の五人組のような不自由な思いをすることになります。

一般に、有線に比べて
無線は品質がよくありません。
受信条件があやふやだし、送れる情報量に限りがあります。
しかし無線は何かが自由です。
無線が不安定だから有線化するというのは
なんとなく何かに信じて寄りかかってしまう心の問題に
極めてよく似ています。

心と心は無線で繋がっているようなものです。
受信条件があやふやだし、送れる情報量に限りがあります。
この世のあらゆる手段をもって有線化しようとすると
心は自由ではなくなってしまいます。

自由で平等な社会があるとすれば、
それは心が自由でなければなりません。
確かに心は不安定なのですが、
不安定なのが嫌で自由を放棄するような姿勢は
そろそろ改めなければならないと思います。

水曜日, 3月 15, 2006

反復性に対する疑問提起

異動の春になると書類書きが増えます。
何枚もの書類に名前を書く疑問を感じることがあって、
その疑問は「不要なことを繰り返している」という感覚に
根ざしたものです。
現場を見て分かったことは、
書類というのは「情報を物体化して積み重ねる」という側面を
利用したものなので、
人間が手記という「一回性のもので」書いていく必要があります。
印字というのは誰でもできてしまうものなので
便利だけど危険でもあるのです。

この例は分かりやすく、
もう少し分かりにくい例もあります。
テレビは録画せず電波を受信したときの映像が好きという
彼の言葉にどこか納得しています。
では歌手が全国公演をしていて
何度も何度も歌う歌が一回性かどうかは
その場の人間の状況によります。

聞いている側にとって一回性であり、
歌う側にとっては反復なのです。

反復性にはふと疑問が起こります。
空気感まで再現できるほどのオーディオまで出てきて、
自分の歌う姿まで記録されるのでは、
では歌う自分が一回性を保持できるかと不安にもなりそうなものです。

一回性とはアイデンティティに結びついたものです。
それを揺るがすのが人だけではなく、
機械や積み重ねられた社会知識、本やメディアも含まれ、
さらには人間が増えてくると似た状況の人も増えてきて、
自分は自分であるはずなのだけれど
それを証明する手段が分からなくなってしまいます。

誰が悪いわけでもなく、
しかし現在の状況は一回性をより強く意識して行動しなければ
自分がわからない悩みに連れて行かれそうです。

火曜日, 3月 14, 2006

ロバの耳

童話には大抵教訓めいたものがありますが、
秘密が言いたくて地中で叫んで穴を埋めたら
そこから木が生えてきて、その木で作った笛を吹くと
秘密がメロディーに乗せてやってくる、という童話は
何を教訓にするのでしょうか。

日曜日, 3月 05, 2006

アナロジー

時折ガラスが気になることがあります。
透明で錆びなくて適度な重さがあって、
石と同じ物質というのも魅力的です。

ガラスには結晶構造がありません。
固体で透明ですが非晶質で、液体と同じです。
ガラスは非常に長い時間が経つとその重みで
勝手に変形するのだということを聞いた時には
不思議な驚きがありました。

非晶質であるがゆえに等方的でもあります。
塑性の自由さはコンクリートと同様に
建築に重要な役割を果たしています。
それは「自由に曲がる石」と「透明な石」の存在であり、
石造りかレンガで建築を続けてきた西洋人にとっては
新しい石造りなのだと思います。

日本人は石を使い慣れていないし、
あまりなじみもありません。
長屋は木製だから江戸時代はたびたび火事になるのです。
見るものがいとも簡単に変わってしまったせいか
永遠性への理解もあまり深くありません。

永遠性とは本来の定義では永遠に届かない場所であるが、
同様に永遠へ向かうものであっても、
そのスピードには差がある、という数学の先生の一言が
ずいぶん心に残っています。

仏教の説く涅槃は永遠に届かない場所である、
この表現に疑問を持ったことがあります。
永遠に届かないものをなぜ追い求めるかという点で、
結果が出ず自分で確認できないものへと向かうことが
とても奇妙に思えたからです。

これと同じ感触をもった事例は
イタリアの完成までに数百年かかるという塔の建築で、
関わっている人たちが大勢いると言う驚きと、
なぜ完成しないものを作ろうとしているのかが
やはりうまくつかめなかったのです。

この問題は今でも時折立ち表れます。
ふと気が抜けると演繹の方法を忘れてしまうのです。

数百年かかったとしてもそれは有限の時間です。
一人の人間にとっては永遠よりも長い時間のように思いますが、
この場合人間は永遠を
自分の一生と同じ長さだと捉えていることになります。

人間が永遠性の概念を獲得することは
人間の文明の発達度合いとは関係がありません。
永遠性はインドで為されたゼロの発見よりも先にあるのです。

一つの人間の中には
個人と社会というものが存在していて、
そのどちらも本能です。
最近思うことは、人間の脳には
相反するものが多分に含まれているだろうという想像です。
たとえば男脳、女脳と言われたところで
それが実体としての性別とは関係がありません。

社会的に生きるのであれば、
どちらの性別も良く理解できなければならず、
「中性的な脳」が必要なはずです。
男らしく、女らしくという議論は
あくまで外見に結びついた話なのかも知れません。

端的に、蟻には知性がないといいます。
崖に続く場所でも砂糖の道を作っておいたら
どんな状況でも勝手に蟻の列ができてしまいます。
これは人間が砂糖の道を人工的に作っていて
こちらはそれが何かを理解しているが、
当の蟻はその全体を理解できずに動いているために
そう呼ばれるのです。

同じ演繹をするならば
いくら社会システムや宗教、習慣、道徳と呼ばれるものがあっても、
その全体が理解できずに動いてしまえば、
どんなにそのシステムを遵守したとしても
それは知性がないと呼ばれて仕方がないと思います。

人間は全てを知ることができない、
けれども知識とアナロジーによって
共通した現象をカバーできます。
その適用範囲がどこまで広がれるかで
それぞれの世界の広さが決まって行くように思います。

地球の広さが理解できたとしても、
地球の裏まで飛行機で行けたとしても、
それは地球をぱらぱらと
流し読みしているようなものかも知れません、
だからと言って一つのことに執着しているのでは
少しも世界が広がりません。

何かを深く知るということは
アナロジーの端緒として不可欠であり
知ったことを展開して新しい世界を広げていくことも
また勇気が必要なことです。

脳が計算機のように何でも覚えないのは、
すぐに書き換わって現状を把握できなくならないように
するためであるように思います。
脳を書き換えるには
おそらく相当なエネルギーが必要なのです。

限りなく小さいが、しかし0ではない

最終段階のデータを取り終えました。
目標を達成した瞬間というのは
現在形であって実は本人も何が起こったかよく分かりません。

事実というのは本来起こった瞬間に発生しているものですが、
人間の認識はある時間を伴って完成するために
事実は常に過去形でのみ語られます。
このことは話題になることをした自分と、
その影響が遅れて伝わる側との時間差に気がつけば
簡単に認識されます。

COURIER JAPONを初めて読みました。
メジャー・レビュー誌をさらにレビューしたような
おいしいところだけつまみ食いするような本かなと
思って読んでいますが、なかなか分かりやすく面白みがあります。

アメリカ大統領が盗聴をしていた話と
CIAが核兵器開発の偽情報を中東へ流そうとしていた記事があって、
以前ならわたしが驚きとともに迎えるところなのですが、
記事になって大衆が知る頃には
現場では未知の現象が次々に起こっているだろう、と
今はそんなことを思ってしまいます。

この世界はいつでも人間の限界に突き当たっています。
いくら文明が発達したところで、
人間が違う生き物に進化しない限りは
さらに多くの事象を把握できるようにはなりません。

一人の人間は多数の人間のある組織の前では
対抗するのが難しいものです。
個人として生き方の筋があることは必要ですが、
だからと言って孤立無援で戦っても動くものは少ないです。

組織は同程度に大きい組織でなら対抗できます。
何かを動かしたいときに、組織という存在が意味を持ちます。
中国の歴史物語はこの辺を良く踏まえていて、
三国志でも西遊記でも、
まず同じ志を持ったものを仲間にして旅を始めます。

日本にとって組織と言う言葉はなぜか後ろ向きな意味を持ちます。
それを表す象徴的な一節は、
元寇との戦いでは日本の侍が勇ましく名乗りを上げてから一人ずつ戦うのに、
敵はただ無鉄砲に集団で襲ってくるというくだりに示されています。

個人というものが非常に成り立たなかったからこそ
美化されて個人での行動が半ば伝説化された日本と、
個人という小さな単位でしか評価されないからこそ
集団での行動に必要性を感じたいくつかの外国、
どちらが理想ということは余りありませんが、
あるものをあるように捉えるならば
集団と戦えるのは集団であり、
社会性が本能であるならばこの問題は常に立ち上るものです。

文化や主義のバリエーションというのはあって当然のもので、
しかしそれが人間の性質をひどく歪めたもので
あってはならないと強く感じます。
そして集団の中で個人は無力と言う表現をされますが、
非常に小さい力ではあるにせよ、それは0ではありません。
忘れてはいけないことのように思います。

土曜日, 3月 04, 2006

特殊なスイッチ

日本語の原稿を書いている最中には
日本語の曲が聞けません。
頭の回路で干渉が起こるみたいなのです。
ところが英語の曲はすんなりと聞けてしまいます。
同様に英語の原稿を書いている最中には
英語の曲は聞けません。
自分の頭は時々メカのようで、
自分の説明書を書いてるような気分になります。

時々、不意ににあるスイッチが入ることがあります。
そんな時は自分が自動装置のようになってしまいます。
自分のことでありながら
自分を大まかにしか制御できないのです。

あげるので欲しい、という連鎖や
自分のためという欲という感情から遠く離れ、
純粋に楽しみのみを伝えようという気分だけで
人と向かい合うスイッチが入ることがあります。
そういう時は不思議と自分の輪郭を失います。

自分らしいこと、というのは
イメージとして形があるように思ってしまいます。
意識と言葉による定義ができそうな気がするのです。
自分が何であるかを手放した瞬間は
逆にイメージがありません。
しかし自分の輪郭がなくなった自分でいる間が
なぜか一番自分らしいと感じる矛盾があります。

意識が位置や速度であるなら、
無意識は加速度に相当する量のようにも思います。

自立についてちょっとした考察を思います。
雇用と被雇用の関係と
自立と依存の概念は本来別なもののはずなのですが、
非常に近い概念なので混乱が起こります。

想像力や発想はとかくすばらしいもののように呼ばれますが、
違いを正確に弁別できないアナロジーというのは
形がないだけに外から書き換えることができず
極めてやっかいな道具でもありそうです。

「自立の概念」を求めて起業する人がいます。
会社に勤める方に多いのではないかとふと考えます。
会社の違いというのはさながら同じ言葉が通じる外国のようなもので、
そのシステムによってずいぶん印象が違います。
民主的な会社もあれば、社会主義的な会社もあります。
分権が成り立っている場所も、一党独裁な場所も、
象徴で動いている場所も、絶対王政の場所もあります。

日本にとって「外国」の定義には
「言葉が通じない国」を暗に含みますが、
世界を見るとアメリカとイギリスは
言葉が通じても外国です。
ということは、外国の本態的定義は「制度が違う場所」であって、
日本の中の会社は十分外国的に違っているのです。

人の大きさと行動範囲、影響範囲、寿命などを
軽く頭に入れてみると、
この地球全てを網羅できる存在にはなれないだろうと
想像がつきます。

例え「これが単一の国で王は私だ」と宣言したとしても、
野球チームのオーナーが選手と観客と球場のドラマを
一人ではどうにも制御できないのと同じで、
宣言すること自体にあまり現実感がないのです。

会社の社長になったといっても
それは社会という大きな入れ物の中で
役割を果たすために預けられた場所である、というのが
会社のもともとの定義であって、
それが自分の所有物であるという実感に結びつくとしたら
錯覚であるような気さえします。

5000万のロールスロイスを100台持っていても、
エンジンのシリンダから自分の手で作ったわけではないので
「自分のもの」という実感は
本当は湧いていないのではないかと思います。

所有するという感覚がもし実感として成り立つとしたら、
それは人間以外のものから
得たものであり、
自分の体を使う必要がありそうです。
野菜を作るといっても種は買ってくるし、
畑を耕すのだってガソリン動力の機械がやってくれます。

じゃあ人間性を回復するためには
分業をやめて個人の単位へ戻せばいいかというと、
これは論点として違います。
分業によって生産性が累乗に増加する恩恵によって
人は余暇を得ることができていて、
そこから人間性を生み出す素地が発生するからです。

文化はさらに加速され続けなければ
ならないのかもしれません。
もし進歩というものがなかったとしたら、
システムは改変の機会を得ることができず、
会社に必要とされるのは「人の言葉が分かり、
忠実に任務を遂行する機械」のような
存在であって、人間性ではなくなってしまいます。
生き物として生きてはいるけれども、
人間としては生きていないのです。

経済成長が長く続く世界は、
おしなべてこの危機に直面します。
「良い時代」といわれた経済成長期が、
人間性にとって危機であった理由、
富によって不幸せになると宗教が説明する事象は
このようにすれば具体的に説明できるかもしれません。

文化が加速すれば、システムは改変の機会を得ます。
つまり、人間は機械のような忠実なマシンではなく、
それぞれの発想とその総和によって現状を開いていかなければ
ならなくなるのです。
このときには「殿様と家来」のような、
社会制度的な上下関係を破ることができます。
全くの個人が個人の発想によって位置を変えられる、
そういう時代が訪れるのです。

安定というものが「不変」であることならば、
人が生まれて死んでしまう不変を破った存在である限り
原義に忠実な安定はありません。
これが富の差を呼ぶのだと危惧されています。

すべての人が生活できるようにすることは
社会の意義として必ず必要だと思います。
しかしどのようなことをしても生活できるようにするなら
それは社会主義であって、
人間は怠惰することが歴史的に証明されています。

やはり頑張るものが認められるように
制度が整うのが理想として良いとは思うのですが、
問題は「何を判断基準にして頑張ったとするか」が
多くの人にとって可観測な状態にないことが多いのです。
人間は他人の心が読めるわけではなく、
24時間追跡調査をしてるわけでもないので、
判断の誤りが生じます。

今の自分ではこの付近ぐらいまで思考すると
問題の問いが最初へ戻ってきてしまいます。
自然が作ってきた生命のシステムによれば
それは自然淘汰という大きな流れの中にいるもので、
それを改変することはできないと思いますが、
もう少しましな方法はないのだろうかと
いつも考え続けています。

この考察、小休止しながら当分続くテーマになります。

火曜日, 2月 28, 2006

イルカに芸を

イルカには人と同じかそれ以上の知性がある、
だから芸を教える方法は知的なやり取りで行うのだろう、と
思っていました。

イルカには知性があってもそれに相当する感覚入力がありません。
皮膚は硬いし高周波しか聞き取れないのです。
表現は体が大きくて細かな作業ができません。

芸を教える、知的やり取りのみによらない方法としての
良い感覚入力はえさをあげることです。
本能に直結している分だけ分かりやすいのです。

もしかしたら人も同じなのかも知れず、
自分を把握でき、状況を細やかに観察できる感覚入力がない場合、
本能の統御によって導かなければならない状況もありえます。

人間という生き物が「人間」という社会的に認められることは
もしかしたらかなり難しく、
生物の成り立ちには何らかの理由があるという連想によれば
人間になれない人間がたくさんいる、とまことしやかに言われるのには
恐らく何らかの理由があるのです。

金曜日, 2月 24, 2006

甘くない酒、甘くない曲

我を忘れるという心地よさと、
自分と向かい合い手ごたえを感じる満足感があって、
それは甘い酒を飲んだときの陶酔感と
甘くない酒を飲んだときの覚醒感に似ています。

人生にはこの両面があって、
どちらにもこの世界に求められるだけの価値があります。

さわやかに飲めるウイスキーの水割りを除けば
最初から最後まで甘い酒ばかりを好んで飲んでいました。
口に入れたときの馴染みがやわらかくて心地良いのです。
しかしいつまでも飲んでいると何かがもやもやとして、
次第に割り切れない気分になってしまうことがあります。

それは一時の落ち着きが得られる場所が欲しくて
他愛のない話題で盛り上がってしまった場に顔を出して
最初は居心地のよさを感じながら、
十分さと退屈さがない交ぜになった感情になって
自分の形がなくなるほど埋もれてしまう前に離れてしまいたいのに
なかなか席を立てないでいる自分の割り切れなさに
とてもよく似ている気がするのです。

永遠や、恋や、あなたがいないと生きていけないとか、
それは言葉なのになぜ味と同じ「甘い」という表現をするのかと
ふと思います。
それは甘い酒と同じニュアンスを多分に含むからかと
考えていたりして、
でもきっとそれは今までたくさんの人が至った
ある感触でもあるのだろうなとも思います。

じゃあ最初から甘くない、
ドライなものばかりで良かったのかというと
それには一抹の疑問が残ります。
手ごたえや厳しさは生きる刺激ではありますが
豊かさや感情的な共感からはずいぶんと距離があります。

後ろ向きな側面を取り出せば
甘さの只中から抜け出せない怠惰、
苦さの只中で感じる消耗感があって、
どちらも万能ではありません。

年月が経つとなぜ甘くない酒が良くなるのだろうと
ずいぶん不思議に思っていました。
自分と向かい合うもう一人の自分ができていくからなのか、
それとも小さな刺激に慣れてしまったからなのか、
いくつかの理由が混在しているようです。

前向きな側面を取り出せば、
甘さの中に浸る優しさと陶酔感、
苦さの中で感じる瞬間の手ごたえや輝き、
それら全てはこだわりや偏りを多分に含んだ
アンビバレントを矛盾なく内包し、
全人間的で豊かな性質を獲得するために
十分すぎるほど経験したいものです。

社会という大きな入れ物を俯瞰するならば
甘さや苦さという要素はひとの個性差から生じる
マーブリングを施した絵のようになっていて、
それぞれの人が深く関わっていくことで
必要なときに甘さや苦さを得られるように
できているような印象を受けます。

全能の神のような完全性など持たない、
だから物事は豊かで複雑という
不可分な両面を背負います。

月曜日, 2月 20, 2006

運命について

メールは見たくない、
メールを見ると仕事が始まるから、と言ったのは
亡くなったボスで、
時に電話を非常に煩わしく思うわたしには
その気持ちが良く分かります。

本来メールは読むことと返信に時間の余裕があることが
一番の利点だったのですが、
10分以内に返事をしないといけないようなメールは
電話と同じです。

一人の時間が好きで、
一人を楽しめる人といるのを心地よく感じます。

数回しか経験がありませんが、
仕事で外国に一人で行くとほっとして心が落ち着くのは
誰にも手が届かない自分が
比較的簡単に手に入るからです。

運命という言葉を
自分の表現として使ったことがありません。
「それは運命だ」と人間という存在が話し
認めてしまうことはあまりに心許ないのです。

人間は自分の五感以上の感覚がありません。
世界の動きが手に取るようにも分かりません。
だからもし運命があったとしても、
本来それを知覚することができないのです。

運命という言葉を使わないのは、
それがしばしば自分に都合のいい解釈の理由付けとして
使われているからです。
自分に降りかかった苦難や悲しみを
これがわたしの運命なのかと問いはしても、
それをわたしの運命だと受け入れる人はごく稀だからです。

運命は思い込みとは違います。
世界はこのまま変わらないと感じることも、
世界は変えられるはずだと感じることも、
どちらも思いの中にあるもので
変わらないこと、変わることのどちらも運命ではありません。

だから人が今まで信じていなかったことが
ある事実の表出と一緒にがらりと認識を変えると、
今まで起こらなかったような現象になりますが、
人の意志の総和は社会の流れであって、
社会と自分との関係性は運命ではないのです。

しかしそれなら、と思います。
全てが世界のある一点から時間発展的に成り立ったのなら、
全ての現象を含めて運命と呼ぶ限りにおいては
納得ができるように思います。

わたしという存在が自由に表現することも、
また時に制約を感じることも、
運命を信じないことも、またその認識に変更を加えることも、
それら全てがある必然の元にある、
それがわたしなりの運命の解釈なのだと思います。

金曜日, 2月 17, 2006

たった一つだけ、アドバイスを残すなら

デジタル・デバイスが好きで、
デジタルカメラやPDAやタブレットを買ってみたのですが、
使いこなせるようになるまでに何年もかかっています。
呆れるほど物覚えが良くないです。

手引きというものがあって、
横断歩道の渡り方から税金の納め方、
パソコンソフトの使い方から大気圏突破に必要なエネルギーの求め方まで
実にたくさんあります。

人生の手引きをしようとするものもたくさんあって、
幸せになる方法から悩みの解決法、
果ては自分探しに至るまで
実に細かく示されています。

ところがいくら読んでも役に立つ気がしません。
パソコンソフトの使い方が分かったからといって
それを何に役立てればいいかはそれぞれが考えることです。

ほとんどのものは行動の前に動機を必要としますが、
動機よりも行動を求められることが次第に増えています。

動機という未知なものが人間の本性につながるものであれば、
たった一つ役に立つアドバイスは、
あなたがあなた自身の動機に忠実に従い、
自分の人生を生きなさい、
という一言で十分な気がします。
しかしこのアドバイスさえ必要ないのかもしれず、
アドバイスなんて何もないのかもしれません。

動機は欲望でも独りよがりでもありません。
人の意見に従いたければ従えばいいし、
違うと思えば違うと思っていいのです。
自らが自らの観察をして制御するなら、
自分に必要な人付き合いの量を選ぶでしょうし、
意識になくても助け合って生きることが行動に出るでしょう。

社会のシステムに従うかどうかより、
自らの動機が分からず、それに従えないということこそ
個人の生きる手ごたえにとって重大な問題なのです。

自らの動機には人を助けることで幸せを得るもの、
人と競争して切磋琢磨するもの、
自らの洞察によって思想を深めるもの、
人を幸せに率いることが自らの使命と定めるものなどが
動機という個人の特性として含まれています。

どんな強烈な外乱の中にあって、
どんなに人の意見を考慮して動いたとしても、
どうしても持ってしまっている特性だけは変わりようがない、
これがこの数年で一番強く意識されたことでした。

言葉にすればわずか数言で済んでしまうようなことですが、
それがわたしの本性だという実感があります。

この世はある一点から時間発展によって生じたとすれば、
その全てが必然の元にあるのであって、
わたしがどう生きたとしてもそれはわたしの「特別な自我」ではなく、
人間という容器と能力の範囲に収まるものであり、
大きく見れば世の必然にしかならないのです。

信じる宗教がなくても林檎は木から落ちるのであり、
どんなに頑張っても
この世の仕掛けというものを逸脱することはないのです。

制御が好きで

自分の好きなものとは、
それを続けても苦にならないものを言うようです。

制御の難解な点は
自分だけのルールを押し通すのではなく、
あるいくつかの定められたルールをまず理解することが
必要です。
しかし理解するだけに終わってはならず、
それを役に立つよう導く所までが仕事になります。

人から見ると不連続で独創的なものというのは、
作る本人にとっては何らかの系譜に沿っているものじゃないかと
最近考えています。
何らかのきっかけがあって事態は生じるもので、
時に誇張して「神のひらめき」などと表現されるのですが、
本人にとってはある流れがあって、
独創とは思えない場合も多いのです。

謙虚であることは大切ですが、
だからといって自信まで失うことはないのです。

水曜日, 2月 15, 2006

変換装置を通過して

2日間、48時間試験が終わりました。
ほとんど朝夜の習慣ごとを抜いてしまったので
月曜が終わったばかりとさえ思う
浦島太郎の気分です。

気持ちの良い人は多分たくさんいます。
ただしその人が快く紹介されるとは限らない、ということを
ネットの記事を読んでいて思いました。

有名人はいろいろなものに紹介されます。
紹介というのは他人がその人について述べたことであって、
信憑性を上げるために取材を載せますが、
その内容は肯定的にも否定的にも「解釈」できます。

古いということに対する安定と退廃の2重定義、
新しいということに対するエネルギーと不安定の2重定義などは
いつの世でも飽きもせず繰り返される議題です。

ネット記事というのは紙面広告と若干違って、
同じ画面でそのまま自分のサイトや商品紹介、注文へと
誘導することができます。
類似のサービスは送料無料の葉書広告ですが、
これはポストに行く手間がかかります。

ネットで買い物をするかしないかより、
買い物の結果何ができたかが概ね重要なのは買う側で、
相手の都合が何であるかよりも
買い物をしてもらえたかが概ね重要なのは売る側です。

売ると買う、ただそれだけのことに
感情という大きなノイズが乗っています。

仕事のある側面が嫌いです。
何でもお金で判断してしまわれることがあるからです。
主に広告によって欲望を煽られています。
広く思想を伝えることも物を買って欲しいと訴えるのも
ともに広告の漢字的な意味です。

宗教観がない、ということは自由なようでいて、
固定概念を変えるための外力も失った状態になります。
包丁がないと料理ができないわけではありませんが、
手づかみばかりでは進歩もしないのです。

それぞれの時代にあった先鋭的で常識を逸脱した思想は、
固定概念を変える可能性があるために危険視されるか、
行き詰まりを変えるために歓迎されるかします。
少し時間がかかっても、次第に世に受け入れられ、
長く効果が出るような仕事をしたいと思います。

宣伝が嫌いなのは、
自分の欲求を操作しようと彼らが試みるからです。
煽られ、挑発されて手に入れたものは
自分の満足と共に心静かに持つことができず、
誰かにそれを見せたくなってしまいます。
長い文化を持った国は
そういう情けないことをしてはいけないと
自省しなければなりません。

ネット広告やバナーには転職関連の記事、
特に年収がどうだといかいうものが
常に目に飛び込んできて
なんだか目障りに感じます。

確かに年収というのは人が共通に持つ
出来事の側面なのですが、
それの大小を測るというのは
小学生が珍しい牛乳のふたの多少を測るのと同じです。

お金にも流行り廃りがある、と考えれば
「価値観の転換」という言葉には意味があります。
およそ共通と思われている物欲、金銭欲とは別に、
個人があり方を考えて意味を見出すことが
価値観を変えるという表現で表されているように思います。

お金というのは現場で使う際に便利ではありますが、
その概念のプロパーな取り扱いが非常に煩雑です。
簡単な面ばかりが強調され、
実体にある二つの側面が自体をややこしくしています。

めぐり巡ってこの話は、
あるものそのものが良いか悪いかに関わらず、
それを誰が伝えたかの方が受け手に重く意味をもつ、という
結論に至ります。

木曜日, 2月 09, 2006

メールは実体か否か

スケジュールが再び詰まり始めて
妙な緊張感が高まっています。

ほとんど信用していなかった装置の中に
FAXがあります。
紙が詰まったら読み取れないし、
いつ読まれるかも不明だからです。

FAXよりは電子メールは信用しやすいものでした。
当初は配信遅延が相当多かったのですが
現在は特に困ったことが起きません。

電子メールより携帯メールは信用できました。
相手の手元に届くし、
vodafone同士なら送られたことはちゃんと通知されるからです。

FAXを日常的に使い始めて、
送ったり受け取ったりするうちに
不思議と信用するようになりました。
エラーが出ることもあるのですが、
それでも「まあこんなものか」と気楽に感じるのです。

状態として何も変わっていないのに、
ないと思っているものは存在せず、
あると思うものが存在します。
幽霊は私にとってない存在ですが、
どこかの誰かにとっては実在です。

人のつながりはこのFAXに不思議と似ています。
あると思えばあり、
ないと思えばないのです。

水曜日, 2月 08, 2006

じゃあ、お金で買える物は何なのか

シュガーパウダーを振り掛けるように
粉雪が降りました。
コメントくれた方がいるのに
サーバーエラーで読めません。
良かったらもう一度コメント下さい。

マスターカードの
pricelessをキーワードにした宣伝があります。
具体的に買ったものの値段を挙げていって、
その結果何かpricelessなものへ至るという流れです。

自分の中の理解が未分離なので演繹してみます。

買うという行為はお金を自分が出し、
物かサービスか権利を自分が受け取ることです。

物に値段が付いている内訳は
開発費回収のため、宣伝に使った分のため、会社を大きくする分のためなど
複数の理由によっています。

値段に納得すれば買う、
この言葉は何に納得するかで異なります。
服であれば、自分に似合うという納得と、
値段が高いものを身につけているという納得、
作りの丁寧さや流行に合っているという納得などが混在していて、
人によってその重み付けが違います。

納得して欲しくても買えないことがあります。
お金が十分にあるというのは、この買えない壁を
取り除く意味を持っています。

買ったものには何らかの使い道があります。
服なら着るし、デザートなら3時に食べます。
何もしない「置物」も置いて見ています。
人に見せなくても、自分が持っているという意識があります。

買って持つ、という行為が
人によって意味合いを変えます。

物と対話するように何かを買ったり所有する人は
持っているだけで喜びを感じます。
そこに他人は必要とされません。
しかし人に見せるために何かを買ったり所有する人は、
持っているだけでは喜びを感じません。
そこに他人が必要になるのです。

自立と孤立、
この言葉を最近2冊の本で相次いで見つけました。
自立のためには対話する「もう一人の自分」が必要である、というくだりで、
物を擬人化することでも間接的にそれは得られます。
しかし物に依存してしまうと
一種の偶像崇拝になります。

じゃあ物があれば人間には迷惑がないかというと
それは別の問題です。
人を必要とする人が人を失うと嘆き悲しむように、
物を必要とする人が物を失うと同じように嘆きます。
物に傷が付いたり失われたりしてひどく怒り出す人は、
それを自分の分身か愛する誰かのように捉えているからです。

仏教の解説に「無権利の確認」というくだりがでてきます。
自分が持つもの、意のままにできるものは何一つないことを
改めて知りなさい、という意味なのだと考えています。

ここまで考えてみて、
個人として生きるということは可能であっても
人の中で生きるということは可能になるとは限りません。
社会性は人が獲得した本能で、
自分が社会的に意味があることを確認していたいものなのです。

社会的な意味を作り出すために、
人はいろいろなアプローチを考え出します。
見た目が美しいほうが受け入れられやすいという判断をすれば
着飾ったりすることに集中し、
人のために尽くすことが受け入れられやすいという判断をすれば
ボランティア活動や仕事に力を注ぎます。

ここでお金と仕事の接点が現れます。
社会的に受け入れられる仕事の評価や対価としてお金をもらう、
ということだけが単一概念として受け入れられていると、
仕事の評価の代わりにお金の多少を参照します。

参考程度にしているうちはいいのですが、
そのうち仕事の評価のほうがなおざりにされて
お金の多少だけが一人歩きし始めることが多くあります。

仕事の評価がお金の多少へ反映することも、
お金の多少が仕事の評価の反映であることも、
その双方向の流れがもともと絶対的ではないのです。

水木しげる「水木さんの幸福論」では、
「努力は報われず裏切られることがある」という一言で、
この双方向の流れが絶対的であるという概念を
固定しないよう説かれています。

お金を多く持つ人の中には、
たくさんの人のためになったと認められた結果の人と、
そうではない理由による人とが混在しています。
それでもお金を欲しい、お金があることを示したいと思う人は、
お金の多少によって「ためになった重要な人」と思われたいのだと
ふと思います。
これが「お金で買えると思っているもの」のある人たちの結論です。

VIP待遇って何のことだろうと思っていると
Very Important Peopleなのだそうで、
お金持ちな人と重要な人はイコールではないのに
呼び名がそうなっているのでは
認識が混在するのも無理はありません。

問題は、真に人に認められる満足というものが
実際にはお金では買えないということにあります。
建設的な提案には、自らが他人となって自らを認めるという
方法があります。

この省略形が「自己満足」であるようなのですが、
なぜか自己満足という響きは肯定的に用いられることが
少ないようです。
これは「自己中心」とか「利己的」と
混同されがちだからなのでしょうか。

他人からの承認が絶対的な価値を決めるものではない、
この意識が自らに自信を持たせるために必要なはずですが、
これを広めようとすると抵抗が起こります。
ブランド屋さんはその「普遍的に認められる存在」という意識で
命脈が繋がっている面があるためです。

小さく、あまり認知されてないものは信用を得るのが大変です。
特に日本人は誰も知らないものに
自らの判断で興味を示しにくい傾向があります。
おのずと結果ばかりが重視されるようになります。
一生懸命結果を出すと認められるようになるのですが、
今度は認められることを足がかりに事業を展開しようとします。

asahi.comのネット広告で
「松下だから安心です」というくだりがあったのですが、
実績は長いとしても
工場をあちこちで閉鎖し、賃金カットをして
ファンヒーターの修理に奔走している、
こういう現実はどんな会社にも起こりうるのですが、
しかし「松下だから」とはちょっと言い切りすぎてないかと不安になります。

人にも良い影響を与えるような自己満足とは
どうやって作ったらいいのでしょうか。

まず「人に良い影響」が何であるか考える必要があります。
一義的には言えないが抽象的解ですが、
生き物は生き続ける事がその目的であるとすると
長い目で見てその人の生活や行き方に満足が得られる、というのが
一般的に良いかと思います。

しかし生きているだけでは人間的に満たされないと考えた場合、
短い目で見て、結果が出ない時点であっても
その方向へ向かうこと自体に満足が得られる必要があります。

競争原理が人の限界能力を伸ばすと言いますが、
それは分かりやすく過ちやすい目標だと思っています。
競争は他人を使って満足する方法であって
自己満足ではないからです。

先生という職業を難しいと思うのは、
生徒を教えた結果、有名大学にいけたという数が
評価の対象になってしまう点にあります。

入学の時点で概ね進学欲のある人を選別するのですが、
本人たちが進学を望まないと途中で気が付いても
自らの評価が必要なために生徒に
大学を受けさせようとしてしまう先生が出てきてしまうことになります。

もっとも、それは畑作りが上手な人と同じようなもので、
できる人はできるし、
できない人はできないものだとも思います。

ここまで考えると、競争原理を発動したがる側というのは
人の行動を管理する側だということにも気がつきます。
なるほど競争原理というのは簡単な麻薬のようなもので、
数字で判断ができるため見た目に分かりやすく、
早く結果が必要な場合に誰でも使える思考です。

競争ではなくて人を動かすことは
管理側の人間にとってかなり負担になります。
やる気とかモチベーションと呼ばれるものを引き出すには
試行錯誤が必要になるし、
人徳とか信用というものを人の心に発生させるには
かなり時間がかかるからです。

見た目に分かりやすい、
これを絶対善としてはいけないという結論になります。
まるで偶像崇拝のアナロジーのようです。

管理側の人間が挑まなければならないことは、
競争原理を使わずに組織をつくり、
かつ非常に強力な競争原理の組織よりも
実りある結果を出して存続することです。

相手の組織に勝つのではなく、
競争原理という概念に勝たなければならないのです。

最近、社会に挑むという言葉は
人そのものに挑むのではなく、
既存概念やシステムに挑むという言葉であるように感じます。

研究を続けて思うのは、
分からないことが自然の何かである場合、
その仕掛けを理解するという戦いを挑みます。
たとえば鉄が溶ける温度が分かれば
温度域の設計によって強度を保つ目的が達成され、
建物の共振周波数が分かれば
地の神様にお祈りするよりは
地震によって建物が倒れるのを防ぐ確率が上げられます。

このアナロジーを先ほどの話と重ねると、
自分が始めることは
社会は善だとか悪だとか単純すぎる切り分けに逃げることを
ひとまず保留し、
社会という組織に何が含まれるかを
まず実験的に理解するところから始め、
理解が得られた範囲で対策を考えれば良いと考えます。

社会契約論では、
人は生まれながらに社会に属するというのですが、
属していることとそれが理解できていることは
全く違う話です。
これは野球のルールと面白さが分からなくても
球場に行けば野球観戦ができる様に似ています。
周りが騒げば良い結果が起こったのだろうと感じ、
同調すると分からなくても騒げます。

自らの判断をすること、
それはルールが分かっているものに対してのみ行えることで、
そのルールを理解することは直接お金では買えません。
しかしお金を持っている人は
お金の影響で自分が理解したようなルールに
社会を変えられないかと試みることがあるでしょう。
意識は形ではないのでどちらにも変わり得ます。
それを「買えるもの」にするか、それとも「買えないもの」にするかは、
一人一人がお金に左右されやすいかどうかという傾向の総和として
現れてくるでしょう。
そしてルールが「買えないもの」であるよう保てれば、
人に行動を左右されない個人の自由も
またその中に保たれることでしょう。