月曜日, 8月 29, 2005

現代うた考

つくばエクスプレスの駅に設置されている椅子です。

なぜFRPでなく、高価なカーボンファイバー製なのか
とても気になりました。

ちなみに「エキスプレス」と「エクスプレス」、
どちらを使うべきかいまだに迷います。

身も蓋もあったもんじゃない、とは
なんでもあけすけに物を言うときのセリフで、
何でも伝えればいいかというと
どうも言わずにニュアンスで伝えて欲しいと思うことがあるようです。

古い絵巻には恋の歌を詠みかわすくだりがあって、
読み手の解釈を間違ったためにすれ違う、ということも
起こっています。
解釈の違いは機械で言えば「あそび」の部分であり、
この部分で滑らかさと不確実さが同時に生じます。

現代の歌は短歌ではなく歌謡曲ですが、
それでも"music"に当たる音楽表現に歌という漢字をあて、
短歌に相当するはずの"poem"に詩という別の漢字を当てたということは、
歌詠みが持っている役割が詩ではなく曲に託されたということだろうと
解釈しています。

カセットテープがあった頃は、
46分なり60分なりの長さをどんな曲のどんな並びで埋めようかと
あれこれと悩んだものです。
それは自分が曲を組み合わせて持たせるイメージで、
短歌の引用と同じような使い方になるのだろうと思っています。

今はMDができてしまって、
曲のアレンジをすることは減ってしまいました。
好きな曲を好きな場所から聞ける、という特性が
続けて聞く方法から手段を遠ざけたのです。

「こんな曲が好きです」
そこに今の自分というものを重ねて伝えるのは、
ヤマトの時代から受け継がれてきた
現代の歌詠みだと思っています。

金曜日, 8月 26, 2005

Certified

語学が好きだったのを思い出してきました。

8年ぐらい前に買って、誰かに貸したまま行方不明になった
語源辞典をアマゾンで見つけ、
中国語検定問題集と一緒に取り寄せました。

メーラーが不調で、LANケーブルも信号が弱くなって、
すこし電化製品が風邪を引いています。

見た目が変わらない、中身も変わらない、性能も変わらないという
二つの品物があって、
しかし値段がまるで違うものというのが存在します。
一つは作っただけのもの、
もう一つは耐久テストが済んだものです。

このての品物は検査されることに手間がかかるので
検査証なるものが付いてきます。

試験に受からなくても仕事はできる、は
確かに本当だと思いますが、
試験の意味合いというのは一種の耐久テストのようなもので、
大丈夫だろうとなんらかの保証が得られることに似ています。

生産の立場と開発の立場で
検査の意味合いは大きく異なってきます。
生産では既知の手順を用いてたくさん作ることを目的にし、
検査とは省略可能であれば飛ばしてしまいたいものでもあります。
しかし検査によって価値を高めることもできるのであれば、
生産サイドでは積極的に検査を導入します。

開発では未知の手順を早く既知の手順にすることが目的なので、
検査の中でも動作試験はしますが長期試験はあまり行いません。

技術が未開の分野では
まず道筋をつけるところに労働が集中するため、
検査の時間をあまり取らずに開発速度を上げます。
しかし一度道ができてしまうと、
安全に、早く、安くを求めるようになり
検査の時間が長くなります。

問題はここからで、
技術が飽和してくると
開発さえも安全にできるはずだという錯覚が生まれたり、
これまでわけも分からずやってきたことが
危険なので検査を増やしなさいと勧告されたりして、
技術が飽和したらスピードを上げないといけないのに、
飽和した技術自体が開発速度を下げてしまいます。

ブレーキだけではいけない、アクセルだけではいけないというのは
本田宗一郎の言葉です。
それは「どちらかに捉われてはいけない」という、
人間性を特定の事象に固執させずに
自由な立場でいること、と読みかえられるかもしれません。

日本では保証はどことなく「標準添付」されて
当たり前だと思っているところがあって、
それが日々の生活を安全にしているところもあり、
一方で物に対して呆れるほどの労働を求められているところもあります。

水曜日, 8月 17, 2005

モード変更の距離

春雨スープが好きなのですが、
カップで売っているものはカップ麺位の値段がするので
もっと手軽に食べられないかと考えたところ、
わかめスープに市販の乾燥春雨をそのまま足しても
おいしく食べられることがこの間分かりました。

終戦の日に、
努力して終戦を意識しない1日を送りました。
そういう1日が送れるかどうかを試してみたかったのです。

8月15日だけは日本は敗戦の国になります。
しかし、負け、くじかれたものが何であったかというと
国家としての意志であって、
人々の思いというのは別にあると考えています。

「あの当時、あなたは戦争に賛成でしたか」と問う
国勢調査をやれば少しは「民の意志」がわかるはずなのですが、
国がこんな調査をしてくれた試しはなく、
ぼんやりした印象のまま「敗戦」であることだけが
この国の印象であるように伝えられています。

民主主義によって作られた国なら
戦争は国民の意思になりえますが、
もともと将軍だ天皇だという象徴支配体制の元で
民意によって戦争を回避できる手段があったとは
思っていません。

戦勝国からは
悪いことをして負けたのだから反省せよ、と言われています。
秩序が崩壊すること自体に端を発して
目を覆うような惨劇が生み出されるのだから、
戦争を選んだがゆえに反省せよ、と考えなければならないわけで、
応じた国も本来同罪なのですが、
戦勝国は自らの行いを正当化しています。

アフリカ、アジアのヨーロッパ支配については
何の感情的解釈もなく世界史で紹介されているのに、
同じ目的を達成しようとした日本の外交だけが
凄惨な言葉で綴られているのか、ということに
もう少し焦点を当てても良いと思います。

日本が何かの問題で非難されている、というときに、
日本が戦後の焼け野原からほんの少し脱したぐらいの状態のまま
現在を迎えていたら、
こんなに非難されるだろうか、と考えることがあります。
海の向こう側にいる人たちも、
行為と悪意がない交ぜになった同じ人間です。

2年前と今年のアメリカの人の気持ちを比べると、
テロによる恐れから外国人を排除する雰囲気と
イラク戦はどう評価されても正当化できないと感じて
彼らなりの申し訳ない気持ちを表現しようとしている雰囲気の違いが
印象に残りました。

バブルの頃は、
経済的には豊かになったのに、
どうして精神的には貧しいのかという問題について
さんざん議論がされていました。
戦争という大病にかかったような日本が
精神的に豊かになるためには50年とか100年ぐらいの
戦争のない時間がもともと必要だったのかも知れず、
どうしてに当たる答えはもともと存在しなかったかもしれません。

日本に500兆円の国債があると言う話で、
一人当たりの額に直すと、という話が良く出てきますが、
返すために死ぬほど努力して
這いつくばって生きていかなければならないようなイメージは
持っていても意味がないと思います。
国の政策をあてもなく恨んで結果が出ないぐらいなら、
少しずつでもせめて返す方法を探しながら、
何代もかけて緩やかにに歪みを取っていけたら良いのではないかと
今は考えています。

映画「ボーリング・フォー・コロンバイン」では
アメリカ人は常に死への恐怖におびえている土壌があって、
だから銃が手放せないんだという一節があり
確かにそうだと納得したことがあります。
アメリカから輸入されたものが文化だとしたら、
恐怖心も一緒に輸入しているはずです。

時間が経ってしまって多くの人は、
戦争の経験も罪の行動もないのに、
なぜ自分たちが謝り続けなければならないのかと
どこかでわだかまっていないのだろうかと
考えることがあります。

それは右寄りな考え方とか言う問題ではなく、
戦争や戦争犯罪の評価がアンフェアである、
許されるための手段さえ示されておらず、
終わりなく保証や賠償にたかられている、
ということを無意識に感じるからです。

失敗したら、平身低頭したまま一生を送る、
こんな世界観でいたら
堂々と非を認め謝ることだってできません。
敗戦の国であっても、心優しく誠実で立派な民であり、
生き生きと生きながら他の国のためにも尽くしていく、
そんな風に世界へ顔向けしたいと思うのです。

火曜日, 8月 16, 2005

多元連立方程式

野生の生き物は
薬効のある野草を食べたり、土を食べたりして
時々調子を整えます。
五木寛之「養生の実技」では
できるだけ何の外科的・内科的療法も加えないのが
素晴らしいことだと書いていましたが、
野生の摂理に少しだけ合っていない面があるのではと
いろいろ考えています。

テツガクの言葉で「止揚」というものがあって、
一見対立する概念をよりソフィスティケイトされた見地から眺めると
矛盾せず存在する、というくだりについて
時々考えます。

物理にはパラメタライズという手法があって、
ある結果を表す方程式に影響を及ぼす要素を
ひとまず分からない関数として導入だけしておいて、
関数の形を探しながら使いやすい一般解を導く、
という作業を時々やります。

ある関数形がさまざまな現象に応用できると、
その関数は根源的な自然の決まりごとを表したものとして
重宝されます。

ニュートン力学以前の物理というのは、
さまざまな力学実験を行って、
それぞれにパラメタライズした近似的な方程式をつくり、
個々の現象にのみ使っていました。

微分という概念が用意され、
人間の目に見えるのは速度までだったものが、
その一段下の「加速度」というところへ踏み込んだところで
ばらばらだった現象説明の統一が始まりました。

物理の進展はこういう経緯をたどっているので、
最終的に「全ての物理が統一される」ということを
期待してしまうのです。

しかしふと、
最終的な統一式が仮に二つのパラメーターになると
何らかの方法で証明されてしまった場合は
科学者はなんと見解するのかと気になります。

このあたり、一神教の教義にも全く通じるもので、
無理やり二つのものを一つにしようと努力するかも知れず、
科学はガリレオの頃のように
再度人々の審判にさらされるかもしれません。

連立方程式、というものがあります。
いくつかの分からない数字があって、
それらの数字がいくつかの規則を作っているのを与えられ
その数字を当てる、というものです。

ただ四則演算を繰り返すだけなのですが、
とても面倒だったりします。

分からない数字が少し増えると
考えるのは急速に難しくなっていくので、
大きな連立方程式の中に含まれる
小さな連立方程式を解くだけで
満足してしまったりします。
解ける式を作るにはそれなりの力が必要です。

この方程式、
全ての場合について解けない場合もあります。
ただ、
局所的に解けていたり、未知の数がいくつか残ったままでも
使い道は結構あるものです。

人の世界も同じで、
いろいろな人の願いを多く叶えるための方法は
人が増えるほど難しくなってしまいますが、
小さな理解の満足で目をつぶるのではなく、
大きな理解が得られるような方法の組み合わせが
自分の中に用意できたら良いなとよく願います。

選択できることに意味がある

アルコール依存症はalcoholicで、
仕事中毒はworkaholicです。
今までワーカホリックを肯定的に受け止めていたのですが、
中毒であることに変わりはなく、
休みを取ると決めた2日目は
仕事に戻りたいと思う自分を止めるのが大変でした。

精力的に仕事をすることと、
ワーカホリックであることは同義ではない、というところから
仕事との向き合い方を考え直します。

研究室のデスクで使っている椅子を
部屋の中にある別の椅子に変えました。
この椅子、以前に使っていたもので、
その時はすわり心地が悪いと思って
昨日まで使っていた椅子と交換し
良い心地だと思って仕事をしていたのでした。

「良い椅子」というものについて考えます。

良い椅子はいつも心地が安らぐもの、と
どこかで思っていたりします。
ところがどんな椅子に座ったとしても
なんとなく飽きてしまったりします。

「良い椅子」は「飽きない椅子」、であるとは
限らないのです。

旅に出るとさまざまなものに
腰を下ろします。

公園の真ん中の噴水へりの石段、
プラスチックで格子に編まれた背もたれのついた
カフェテラスのアルミ椅子、
やや固い乗り心地の山手線のソファー、
日差しで熱く焼けた浜辺の砂地、
夜遅くなった通りのガードレールと
いろいろなものに体を支えてもらいます。

旅先で考え事が新鮮にまとまっていく、というのは
座るものが変わっていくからかもしれないなと
ふと思いました。

人間の背中にはあまり感覚神経が通っていない、とは
小さい頃に読んだ事典の一節で、
座るところはなんでも構わないと思っていたのですが、
座るというのは直接人が触れている箇所であって、
気分を変えるために椅子の交換は必要かなと
ふと思い立ちました。

クッションも背もたれもない
コンクリートに座る、とだけ言うと
丸の内のビルの真ん中の道路に座らされているなら
禅行のような辛いイメージがありますが、
静かに凪いだ浜辺の防波堤に座って、
月明かりに照らされた海の表面を眺めているなら
実に幸せな気分だと思うのです。

水曜日, 8月 10, 2005

「ワルモノ」の定義

住む場所から学校までの距離が近い方が
寝坊する、という話を聞いたことがあって、
車で40分の温水プールから
歩いて3分の所内プールに活動が変わった途端に
なかなか通うのが難しくなってしまいました。

堀江貴文「会社の作り方」、を読んでいて、
あまりに嫌気がさして
ゴミ箱に本を投げ捨ててしまいました。

強烈な嫌悪感が何から生じているのかさえ把握できず、
それでどこに嫌気がさしているのかを
しばらく考え続けていました。

それは、
自分は良いことばかりはしていない、ワルモノだと書いておきながら、
「多くの人がハッピーになって夢が叶うなら別に良いじゃないか」と
最後の最後で自分を肯定しているところに
あるのだと気がつきました。

何かを為すときに反対に合うというのは
よくあることです。
全てを満たす決断ばかりではないので、
決断をした後には決断しなかったほうの可能性について
何らかの後ろめたさのような不協和音が残ります。

決断はあくまで自分が望むものに対して
良い結果を得るために選ぶことですが、
自分が望まなかった結果や犠牲にしたものに対して
申し訳ないという気持ちを同時に持っていなければ
ならないような気がするのです。

日によっても違うかもしれませんが、
自らに対して、主に
肯定的な気持ちを持つ人と
否定的な気持ちを持つ人がいます。
自分はどちらかといえば否定的な気持ちを持ちながら
日々を過ごしてることがありますが、
ワルモノだと思われても、
これではいけない、もっとよい方法があるのではないかと
探す毎日を自分に課すことだけは
忘れないでいようと思っています。

Field-Multiply

佐賀放射光シンクロトロンのRF管です。

銅の筒から突き出した銅のパイプ、
マンガに出てくる実験装置そのままです。

考え事をしていて、
なんだかもやもやとしたところに
行き当たることがあります。
今までに知ったことや感じたことの中に
繋がりが見出せそうなときだと
自分では思っています。

実家の仕出しの手伝いをしながら、
どんなに忙しく動いても一人では前へ進まなくなったときに、
自分がどれだけ素早く仕事をこなせるかではなく、
仕事場全体のスピードをどれだけ速くできるかに
考えを移し始めた時期があります。

最終的に至ったそれは、
自分というものが行う仕事が
表立ったものになるかどうかは気にせず、
必要な箇所があれば
どんな場所でも自分をそこへ向かわせる、
というだけのルールで出来ているものでした。

結果として仕事は速くなりますが、
後で自分がした仕事は何であるかと問われると
「下準備と後片付け」と答えるのが適当だったりします。

コーディネータの仕事は
仕事という場に自分の意志を投影した
「意志の方向」を持たせるということであり、
明確な形がないのです。

コーディネータの数は
たくさんは必要ありません。
あまり多いとまとまりが悪くなってしまうからです。

それぞれの人がのびのびと仕事をしながら、
自分はその空間の中で形のない意志として存在している、
地味で面倒な仕事だったりするのですが、
自分の居場所はそんなところにあると考えています。

最近ずっと引っかかっていることは、
なぜ人には体の10倍以上の制御能力を持った脳が
与えられているか、ということです。
本には「無駄な要素」として取り上げられていることもありますが、
わたしには「何かの理由がある」と
どうしても感じられてならないのです。

ある人は千年統治を越えて生きられるため、と
説明するのかもしれませんが、
それなら人間は1000年生きるように進化するはずで、
的を得た理由付けにはなりません。

数字の分母と分子をさかさまにすれば
意志の1/10しか現実には叶えられない、ということであって、
かなり体というのは不便な装置です。
実体としての体に意志の量を合わせる、という試みが
ストレスの少ない生活をもたらしてくれないか調整中です。

月曜日, 8月 08, 2005

夏の1冊と読書感想文

音楽を自分に感じさせる方法は二つあって、
一つは音楽を流すことで、
もう一つは曲を思い浮かべることです。
調子が良いときには
自分の中の曲と流れている曲が
同時に聞こえます。

「すごいもの」に対する意識というものを
人はそれぞれ異なった形で持っています。
「すごいもの」は敬意の対象であったり、
力の象徴だったりするのですが、
科学で言えば最初の「すごいもの」は
「超高エネルギー」か「超大出力」などで、
次のステップの「すごいもの」が
「超微細」とか「ナノテクノロジー」といった
極大・極小の二つの無限に関連したものです。

無限というのは
イメージしやすい「すごいもの」なのですが、
正確に「無限の量」を見積もるのは難しいことで、
無限に至る過程を探すのも難しいことです。

ドラゴンボールの話は強くなっていく過程が面白い、
というのですが、
最後は宇宙を飛び出してよく分からないところまで
強くなってしまって、
結果的に面白くなくなってしまったりするのです。

ステップアップする喜び、というのは
確かにあって大切なことだと思いますが、
人には羽根さえ生えていないから
どこまででもステップアップできるわけではありません。

ステップアップすることだけが
喜びの全てであったとしたら、
人はどこかで喜びが終わってしまいます。

国語辞典の表紙に、
「大切なことは、ありふれた言葉で
非凡なことを表現することである」
という一言があって、
この表現がとても気に入っています。

料理をしながら、
世界にはどれだけの種類の料理があるのかと
楽しみにしてみてみると、
すごいコース料理であっても
材料はたまねぎとかジャガイモとかで、
作り方も焼くか蒸すか揚げるか煮るか、
あるいはそれの組み合わせで、
バラエティーには結構早く限界が来るんじゃないかと
思ったことがあるのは10歳ぐらいのときです。

高い材料があったとしても、
100万円もあればこの世の材料は買えてしまうわけで、
やっぱりどこかに限界があります。

この考えが外れていったのはそれからしばらくしてからで、
値段にして100円のジャガイモは、
作り方によって味がとても変わってしまう、と
感じることができた時であるように思います。

それは素晴らしいジャガイモに出会ったのと同時に、
自分が味の小さな違いに
気がつけるようになってきたことが大きく作用しています。
すばらしいジャガイモが味の違いに気づかせてくれて、
違いに気づいた自分が普段のジャガイモを
より楽しめるようになっていって、という循環によって
感じる力は深くなっていくようです。

もし物質としての世界が本当に一つだったとしたら、
世界をどれだけ豊かなものに感じられるかは、
それぞれの感受性に委ねられているということになります。

ジャガイモはこれからもずっとジャガイモで、
高エネルギーにもナノテクノロジーにもなりませんが、
それでも日々愛されていけばいいのです。

めぐりめぐってこの話は、
毎日の中にあるすごいことのイメージを
少し広げてみると良いのではないかと思うところへ
行き着きます。

時々大きな事を計画するのは大切なことで、
人の行動限界が広がる楽しみがあります。
しかし全ての週末が宇宙旅行が旅行企画にならなくても、
暑さが和らいだ夕方に冷たいお茶を片手に
他愛のない話が出来るだけでも
それはなんだか「すごいこと」だと思うのです。

暑い日も散歩をする

この世には自分に生き写しの人が3人いると言いますが、
一体誰がこんなことを言い出したのか気になります。
見かけがそっくりな人にはまだ一人も出会っていません。

博多駅に戻ったときに撮った
ゆふいんの森号です。

九州の列車はデザインも機能も良いものが多いと聞きます。

木曜日, 8月 04, 2005

言葉と世界観

FMトランスミッターです。

ラジオがあるところなら
どこでもヘッドホン音楽がスピーカーで鳴らせるところがみそです。

暇になったり文書を書いたりするときに
時折「言葉の守備範囲」を探すことがあります。

たとえば「華」と「花」の違いであるとか、
「緑」と「翠」の違いという
日本語のわずかな違いに注目したり、
英語で"flower"と言った場合に
イメージされるものがどれくらい「花」に似ているかという
比較をしたりしています。

言語の違いが何をもたらすのかについて
しばらく考えていましたが、
英語と日本語では対応する言葉の守備範囲の違いばかりが
気になっていました。

最近の脳科学の本で
言葉が意識を作り出す、というくだりと、
「英語を話すと冷静になる」という話を聞いたところが
結びついて、
「英語には感情表現の言葉が少ないから
ドライな人間関係が生まれるのではないか」という
仮説に至りました。

以前偶然見つけたテツガクのページには
「虹が7色である理由」についての言及があることや
http://www.law.keio.ac.jp/~hagiwara/pph1-05.html
「オペラ座の怪人」を観て涙が止まらなかったときに、
隣の女性はけろっとした顔で「美しかった」と言うのは、
一体どういうことだろうと考えていたことに
ようやく決着がつきそうです。

これらの結果から、
イタリアの女性は情に厚いというところを聞くと、
イタリア語には感情表現が豊かなのかなと考えたりします。

以前は感情こそがその人の本性なのだから、
表現する言葉はどれでも同じだという意識が外れて、
違う人間になりたい、と思ったら
違う言語を習ってみるというのは
とても的を得た方法であるように思います。

火曜日, 8月 02, 2005

たとえば、3割引の商品を買う

出張に行ったときに
ショッピングモールのブースで
VHSのミュージッククリップのセールがあったので
まとめ買いしてみました。
布袋寅泰のギターがかっこいいです。

太宰治「人間失格」の中に、
日本中で食べずに処分しているものの量があれば
どこかの国が救えるという仮説に対して、
それを集め、保存する仕組みが作れないから
いまだ実現しないのだ、という
話が出ているのを時々思い出します。

物理の世界には
原理的には可能であるが、実現されていない、というものが
たくさん存在します。
以前は政治自体をどことなく毛嫌いしていましたが、
政治がなければ社会が動かないのであれば
嫌いでも付き合うしかないなと考えたりしています。

節約の本を見ながら、
スーパーの特売チラシには毎日目を光らせて
安いものを買うようにしましょうと書いてあったとして、
個人の生活としては好ましいとされる事象でも
それを社会全体で実践してしまうと
スーパーは成り立ちません。

時々は定価で買うことの意味について
思いをめぐらせます。

多少「まあいいや」でお気に入りの物を
買ってしまう、というのは
全体として成り立つために必要なことだと思っています。

機械設計にも同じようなことが
成り立つことがあります。

オーバースペックの部品をつけていると、
普段は無駄だったりするのですが、
いざ改造するというときにとても楽だったりします。

設計には「最適化」という作業があって、
大変好まれて使われる用語なのですが、
「何を」最適化するかが問われることは少なくて、
無意識のうちにパフォーマンスだけの最適化が行われます。

「余裕度」の最適化を行うという意識があれば、
物の見方がだいぶ楽になるんじゃないかと
期待して試している今日この頃です。